マナーを守らない人の心理|本当に伝えるべきこと

先日、筆者が車に乗って信号待ちを
していた時のことです。

信号が青になると、筆者の前に停止
していた軽トラックの窓からタバコが
ポイ捨てされました。

軽トラックは、そのまま走り去っていった。

その交差点は、筆者の住んでいる地域の
すぐ近くだったのですが、この辺では
見かけない車でした。多分、この地域に
住んでいる住人では無いのでしょう。

そう考えると、自分の住んでいる場所を
無責任な部外者が汚していったように
感じて、少し腹立たしかったのです。

さて、マナーの悪い人は、一体、
どんな心境で、それを行うのでしょう?

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子供の頃の思い出

次は、筆者が小学生だった頃の話です。

日曜日の夕方、誰もいない学校の運動場で
友達二人とサッカーをしていました。

すると、足元に何かが落ちてきたのに
気づきました。誰かが私たちに石を
投げたのです。

遠くを見ると、一人の上級生が立っていて、
手招きをしている。野球のユニフォームを
着ていたので、すぐに少年野球の部員だと
分かりました。

状況がよく分からないまま、
三人は上級生の方に歩いていった。

” お前ら、何してんだよ! ”

唐突にそう言われて、サッカーをして
遊んでいただけだと答えると、上級生は
次のように言いました。

” 俺らのグランド、
勝手に汚すんじゃないよ!”

その時、三人は言い返す術も無く、頭を
下げると各自の家に帰ったのです。

今、考えてみると少年野球チームが
練習終わりにグランドの地面を丁寧に整備
しているのは知っていましたので、彼は、
きっと自分たちが大切に使っている場所を
汚されたような気持ちになって腹が立った
のでしょう。

学校の運動場を使用する権利は誰にあるか
という話もありますが、ネット上でも
よく起こるマナーに関する議論は、悪者が
誰かを決めることばかりが焦点になりがちです。

もう少し、別の視点で考えてみましょう。

健全な世界

タバコのポイ捨ての件では、筆者は
腹を立てる側に、そして、運動場の件では
その逆の立場になったわけですが、

いずれも、マナーの悪さに腹を立てる
理由は、自分のイメージしていた
” 健全な世界 ” の一部を壊されたと感じた
からです。

これは、住んでいる地域とか、
学校の敷地とか、物理的、地理的な問題
ではなく、頭の中に、その人の思う
” 世界 ” がイメージとして既に出来上がって
いるということが重要です。

ネット上で顔も知らない人の発言で炎上騒ぎ
が起こるのも、結局はその発言が、それを
見た人が正しいと思っていた ” 世界 ” を
汚したからなのでしょう。

それは、あくまで ” イメージ ” なので
個人差がある。また、はっきりとした
境界線の無い曖昧なものです。

私たちは、この曖昧で、各々が、個人的に
作り上げたイメージの世界で生きている
わけです。

法律を守らないとか、確信犯として、
人に迷惑をかけるというのは論外ですが、
誰かの悪気の無い発言によって、誰かが
不快に感じるのは、結局、双方のイメージ
する世界にギャップがあったということ
なのでしょう。

多くの人の抱く ” それぞれの世界 ” の
共通する部分を一般常識とか、世論と
言うことも出来ますが、それも、結局は、
個人的なイメージの集まりに過ぎない。

そう考えると、自分の個人的なイメージが
壊れるからという理由で、周りの誰かに
自分の世界を強要するというのも、何だか、
おかしな話です。

一体、私たちの頭の中にある
” 健全な世界 ” とは、何なのでしょう?

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公共的な ” 怒り “

人は、誰かのマナーの悪さに腹を立てます。
それが、直接、迷惑になっていなかった
としても。

そこで感じた ” 怒り ” は、私たちが
自分の中に作り上げてきた ” 世界 ” が
汚されてしまったことに対する憤り。

さて、ここからですが、
その ” 個人的世界 ” は、一体、どうやって
作られたのか?

別の言い方をするなら、その人の中にある
善悪の観念や倫理観、道徳観といったものは
何によって構築されたか。

両親の育て方、学校教育、環境・・
確かに、そういった側面はあるでしょう。

ただ、それだけではなく、私たちが
人生の中で経験した様々な事柄が、大きな
影響となって今の自分を作っている。

つまり、その個人的世界は、
” 個人的体験 ” によって作られる。

例えば、誰かに裏切られた過去がある
として、それがたった一度の経験であった
としても、深く傷ついたその人の心に
” 他人を信用してはならない ”
という言葉が刻まれる。

その人にとっては、それが人生の格言です。
しかし、そうでない人から見れば、単なる
” 猜疑心 ” です。

そういった経験による人生の学びが
時として ” 正義 ” とか ” 一般常識 ” という
建前を偽って、誰かを傷つける凶器となる
ことがある。

過去、誰かの心無い一言に傷ついた
経験がある人が、ちょっとでも言い方を
間違えた人を見つけると必要以上に非難する。

元々、世の中に不満を持っている人が、
” 不真面目な奴ら ” に制裁を加えたいという
理由だけで拳を振りかざすこともある。

自分を苦しめる ” 社会の元凶 ” を擬人化し、
それを誰かに当てはめるのです。

そして、彼らは言う。” マナーを守れ ” と。

” 正義 ” という名目の下で個人的な復讐を
果たそうとしている。

直接関係が無かったとしても、” 怒り ” や
” 苛立ち ” を感じるとしたら、それは、
単なる ” 腹いせ ” です。

社会の代弁者となり、誰かを批判する
といった ” 公共的な怒り ” などという感情は
無いのです。

怒れる政治家もいるでしょう。ただし、
政治活動の原点には、必ず ” 個人的体験 ”
がある。もしくは、支持者に向けた
” 怒っている振り ” です。

逆ギレの心理

では、マナーを注意された人が、
” 逆ギレ ” するのは、なぜでしょう?

それが明らかに正しく、言い返す言葉が
無いから?

的を得たことを言われ、非常識な自分に
恥ずかしくなったから?

つまり、将棋で言う ” 詰み ” の状態。
本当に、それが理由なのでしょうか?

注意する側の個人的な腹いせのために、
自分が利用されていることに怒っている
ということは無いのでしょうか?

注意される側には、注意した人が、
正義の仮面を被って人を攻撃する偽善者に
見えている。

そして、仮面をつけた人たちは、
” 君は、反論出来る立場じゃないだろ! ”
という言葉の盾によって、正義の仮面を
外そうとする手を払いのけている。

どんなに理論的な言葉を使って相手を
問い詰めようと、いかに自分の主張が
正しいことを立証しようと、

相手には見抜かれているのです。

ただ、人から逃げ場を奪うために、
人を傷つけるために、目の奥に ” 悪意 ”
というナイフが握られているのを。

これでは、マナーの悪い人に反省を促す
どころか、余計に反発されても不思議では
ありません。

注意する側、注意される側に立場上の優劣
など無いと筆者は考えます。

同じ ” 人間 ” です。

そして、どちらにも信じた ” 世界 ” がある。
人の心を動かすのは、結局、人の心。

必要なのは、抑圧することでも、
コントロールすることでもなく、
互いの世界を認識し合うことです。

筆者としては、人に迷惑をかけないために
無論、一般的なマナーは守って欲しい。

ただ、それを守らない人を ” 怒り ” によって
責めたくはないのです。

もし、マナーの悪い人を見て ” 苛立ち ” を
感じたのなら、それがどこから来たのか、
自分に問いかけてみて欲しいのです。

注意する側にも節度は必要です。
それは、相手に対する敬意でもあります。
そして、その ” 敬意 ” も必ず相手に伝わる。

” 偽りの正しさ ” が伝わるのと同じように。

 

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