” 虫の知らせ ” と夢|それは、本当に啓示なのか?

” 虫の知らせ ” という現象があります。

例えば、よく耳にするのが、身内に何らかの
不幸がある場合、その少し前に胸騒ぎがした
というような話。

テレビ番組などでも ” 虫の知らせ ” で
大事故に巻き込まれずに九死に一生を得た
というようなエピソードが紹介されること
があります。

また、それは、胸騒ぎのような感覚的な
ものだけでなく、夢として知らされる
場合もある。

とある出来事の数日前に、意味深な夢を
見たというようなエピソードを依頼者から
聞くこともありますし、筆者自身の体験
でもあります。

結局のところ ” 虫の知らせ ” とは、一体、
何なのでしょう?

そして、それが夢に表れるとしたら、
どのような夢になるのでしょうか?

今回は、” 虫の知らせ ” と夢の関係について
考えていきたいと思います。

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日常の中の ” 虫の知らせ “

” 虫の知らせ ” というと、大きな危険や
出来事だけに発生する現象のように
思われるかもしれませんが、実際、
日常生活の中でも起こる身近な現象です。

こんな経験は無いでしょうか?

ある時、ぼやっと友人のことについて
考えていると突然の着信音がなり、
携帯を確認すると、その友人からの電話。

噂をしていると、普通は姿を見せない
本人がひょっこり現れるとか、
蕎麦が食べたいと思って家に帰ると、
夕食がまさに蕎麦だったなど。

多くの人が経験しているであろう
この ” 偶然の一致 ”

こうした日常の中の偶然の一致は
” シンクロニティ現象 ” とも呼ばれて
いますが、そもそも、
その発端は何だったのでしょう?

友人のことをぼんやりと考えていたら、
その友人から電話がかかってきた。一体、
いつから、その友人について考えていた
のでしょう?

どういた経緯で友人が出てきたのか?

もはや、” いつの間にか考えていた ”
としか答えようがない曖昧な思考の中の
出来事です。

この曖昧な思考の中に潜在意識からの
インスピレーションが紛れ込んでくる。
筆者は、そう考えています。

そして、そのインスピレーションには、
未来に関することが含まれている。

つまり、友人から電話がかかってくる
ことを事前に察知した潜在意識が、
友人について考え始めるきっかけを与えた。

方法は何でもよいのです。

友人の顔をイメージとして脳裏に
浮かべるだけでも十分なきっかけになる。
知らず知らずに私たちは友人について
考え始め、その後に電話がかかってくる。

それが、まるで偶然の一致のように見える。

確証は永久に訪れない

では、” 虫の知らせ ” が夢として表れた
場合はどうなるでしょう?

次は、とある女性が見た夢の一例です。

ドアがバタンと閉まる音。

就寝時間になり、ベッドでうつらうつらと
し始めた時に、ドアの閉まる大きな音が
幻聴として聞こえたと言います。彼女は、
その大きな音を聞いて目が覚めてしまった。

筆者は尋ねます。

” それは、家族の誰かが閉めたという
ことでは?”

彼女の説明では、自宅には両親と自分の三人
が住んでおり、両親はすでに別の寝室で
眠っていて起きた形跡は無いということでした。

また、室内の空気の流れでドアが閉まる
という現象も窓が閉め切られた状態では
考えられない。

それから、翌日、
次のような出来事があった。

リビングでテレビを見ていると、両親が
口喧嘩を始めたと言います。

彼女はくだらない内容に呆れて、ただ、
黙って座っていましたが、その内イライラ
してきたので立ち上がるとリビングを出る
ことにした。

その時に ” 二人とも、いい加減にしろ! ”
という意味でリビングのドアを勢いよく閉めた。

その音により両親の口喧嘩はピタッと
止まった。そして、彼女はドアを閉めた時、
昨日の幻聴を思い出したのです。

このエピソードを ” 虫の知らせ ” と
言えるのか、という言葉の定義については、
ウィキペディアにお任せするとして
潜在意識は何かを感じ取りその夢を作った。

実際、昨晩、彼女の聴いたという入眠時の
幻聴が翌日にあったリビングの一件と関係が
あるという物的証拠など無いわけですが、

私たちが ” 虫の知らせ ” のような現象、
もしくは、それに近い現象を体験する時、
常にこうした確証の無い曖昧な状況として
訪れます。

それが、気づくか、そうでないかを分ける。
もしくは、信じる人と信じない人を分ける。

つまり、それは常に不確かであり、はっきり
と認識することの出来ない現象なのです。
気のせいとか、思い過ごしと言って、
無視しようと思えば簡単に出来てしまう。

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信じることのリスク

では ” 虫の知らせ ” を見落とさないために、
私たちはどうすればよいのでしょう?

まず、そういったことに関心が無く、
科学的に実証されたもの以外は信じない
という人がいたならば、きっとその人には
” 虫の知らせ ” は永久に届かない。

届かないというより、気づこうとしない
と言った方が正しいのかもしれません。

常に、この現象は ” 曖昧さ ” の中にしか
存在出来ないわけですから、そこに
確証を求めること自体がナンセンスです。

では、” 信じよ。疑うことなかれ ” と、
奇跡を妄信することで私たちは、何かしらの
予兆を察知できるようになるのでしょうか?

先ほども言ったように、現象は、常に
” 曖昧さ ” という霧の中に存在するのです。

誰かに立証することも、確証を得ることも
出来ない。本物の予兆である可能性も、
単なる思い込みである可能性もある。だから
” 疑うべきではない ” と白か黒かを断定する
ことも出来ない。

私たちが受け入れるべきは、事実でも、
奇跡でもなく ” 曖昧さ ” です。

普通ならば、人は曖昧なものを明確に
したがるものです。それが自分にとって
利益になるのか、不利益になるのかを
見定めるために。

明確に利益になるということなら、そこに
時間や労力を投資できる。不利益であると
分かっていれば遠ざければよいのです。

しかし、曖昧であるものに対しては、
どう対処すべきかが分からない。

15世紀、フランスの農夫の娘として生まれた
ジャンヌ・ダルクは、十二歳の時に神の啓示
を受けたと言われています。

それが、本当に神の啓示だったのか?

それとも、思い込みの激しい思春期の少女が
抱いた単なる妄想だったのか?

いずれにせよ、彼女は、それを神の声だと
信じ、生涯を投じて十九歳の若さで処刑
されてしまう。

もし、彼女が、神の声を疑ったとしたら、
悲劇の結末を迎えなかったのかもしれません。

つまり、現象の全てが啓示や奇跡だと
信じることにはある一定のリスクが伴う
ということです。

啓示はどこにでもある

” 自分の単なる思い込みではないか? ”

という問いかけは、どんな局面でも必要
なのです。

自分の考えに疑いを持つということは、
とても居心地が悪い。疑うよりも、
信じる方が簡単で、強い心を手に入れる
ことが出来る。信じることでカタルシスを
得るのです。

” 虫の知らせ ” とは、よく表現された
言葉です。

それは、神の啓示だと断定もして
いなければ、全てを否定してもいない。
それ以上でも、それ以下でもない。

もし、あなたが直感力に磨きをかけて、
より明確な ” 啓示 ” を欲しがっているなら、
それは、ある意味、危険な兆候なのです。

全ては、霧の中。

あなたが見たいものが、霧の中に見える
ようになる。どんなことにも ” 啓示 ” を
見出すことは出来る。

誰かが啓示を否定すれば、反発して、
信じたものをより頑なに信じようとする。

そして、自ら作り出した幻想に
囚われたまま貴重な時間を失ってしまう。

” 虫の知らせ ” とは、どこまで行っても
” 虫の知らせ ” に過ぎないのです。

必要以上に執着するようなものでは
ありませんし、人生の重要な選択を託す
ようなものでもありません。

人生にとって重要だと思える何かがある
ならば、悩み抜いて決断することが大切で
あって ” 楽になりたいから ” という理由で、
啓示を欲しがるべきではありません。

自身の心に問いかけてみてください。
自分が啓示を欲しがっているか、どうか・・

そして、つかんだものがあまりに自分の
求めているものにピッタリと当てはまる
のであれば、それが何を意味するのか?

失った時間を取り戻すのです。

 

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