夢の中の幻想的設定|技法としての “ファンタジー”

” 幻想的 ” と言っても、
人によってそのイメージは様々です。

例えば、小さな子供が生まれて初めて
モンシロチョウを見たとしたら、
それは幻想的光景でしょう。

私たち大人がそれを見ても、単に蝶が
飛んでいるだけにしか見えない。

例えば、写真家が夕暮れのオレンジと紫の
グラデーションに染まる空を見上げ、
” 幻想的 ” だと感じて写真を撮る。

繊細な感覚に欠ける無頓着な人に
とって、それは単なる ” 夕方 ” です。

つまり、それを幻想的だと感じるか
どうかは、夢を見ている本人の主観に
よるということです。

そもそも夢自体が ” 幻想 ” ですから、
全ての夢は幻想的と言える。

要は、それが幻想的に感じたとしても、
現実的に見えたとしても、同じ場所から
生まれた ” 夢 ” であることには違いない
ということです。

夢が幻想的か、現実的かという区別に
それほど深い意味はありません。

では、明らかに夢の内容が
” ファンタジー ” であった場合は
どうでしょう?

つまり、実現不可能なストーリー、
映画や小説のような現実世界とは
ほど遠い設定、誰が見ても ” 幻想的 ”
と言えるような。

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月と栗毛色の馬

次は、とある女性が見た夢の一例。

夜空に三日月が見える。
 
月をじっと見ていると、小さな黒い点が
こっちに向かってくる。
 
栗毛色の馬が自分の目前に降り立つ。
 
自分は背中に乗るべきかどうか
迷っている。

月から馬が迎えにくるという一見、
かぐや姫を思わせるような現実世界
ではありえない設定。

” もしかして、あの世から迎えが来る
という意味なんでしょうか? ”

女性は夢の内容から、それが死の予兆
ではないかと心配しているようでした。

” つまり、迎えに来たのは馬車という
ことですか? 月の使者のような ”

” いえ、違うんです。馬だけです。 ”

” ・・ということは、
馬には手綱や鞍がついていた? ”

” いえ、ついてません ”

” 背中に乗ろうとしたんですよね? ”

” 乗ってみようと思っただけで、
実際には乗ってないです ”

” もしかして、乗馬のご経験が? ”

” 馬を実際に見たことはありません。
テレビとか動画ではありますが ”

” つまり、あなたは夢の中で、
乗ったこともない馬に
鞍もついていない状態でまたがろうと
思った・・ということですか? ”

” ええ、そうなります ”

なぜ、彼女はそのような無謀なことを
しようとしていたのか?

” もう一つ、お伺いしてよろしいですか?
馬とはペガサスのような翼がついた
タイプの? ”

” いえ、普通の馬です。牧場とかで
見かけるような ”

彼女の話を聞く限り、夢に登場するのは、
三日月、そして、馬、どちらも現実世界に
存在するものであり幻想的要素は無い。

しかし、月から馬が地上に駆け下りてくる
という設定は、実現不可能であり、
その部分だけは ” ファンタジー ” として
描かれている。

一体、この夢は何を意味しているのか?

まず、筆者が引っかかったのは、夢の中の
彼女の行動です。乗ったことも無い馬に
またがろうとしていた。正確には、
乗るかどうかを迷っていた。

それが不吉な予兆であれば、人はそれを
避けたいと思うのが普通です。心配に
なって夢解釈の相談にきた彼女も
取り立てて人生に絶望しているという
わけではなかった。

つまり、馬は何かの象徴ではあるが、
それは、” 死 ” ではない。

そして、その馬には鞍も手綱も付いて
いなかった・・ここで考えられるのは、
夢の作り手である潜在意識が、それを
あえて付けなかったのか、
付け忘れたのかです。

あえて付けなかったということであれば、
彼女のまたがろうとする意思に対する
” 抵抗 ” もしくは、人に飼われていない、
つまり ” 野生の馬 ” であるという設定を
意味している。

付け忘れたということであれば、夢の意味
にあまり関係ない不必要なものだったから
描かなかったのでしょう。

また、迎えに来たのが ” 馬 ” だという設定
も少し気になります。それは馬車でもなく、
宇宙船や飛行機でもない。乗り物としては
乗りにくく機能的ではない。

” 月をじっと見つめていたということですが、
そこに何かを感じたので注目していた
ということですか?”

” そうですね・・何となく遠くの月を
眺めていたという感じです ”

” 黒い点を発見したので、注目していた
わけではない?”

” 黒い点が見えたのは、しばらくして
からです ”

馬が地上に降りた理由

ここまでの話から筆者は、次のように
推測しました。

最初は月だけが登場する夢だった。
しかし、その設定では何かが不足しており、
夢の作り手である潜在意識は新たな演出を
付け加えた。

つまり、その後に登場する馬は、
月の ” 代替え ” です。

筆者は尋ねました。

” 何か、人生の目標みたいなものは、
ありますか? ”

” 目標・・ですか? 得には・・”

しばらく考えてから、彼女は言います。

” 目標と言えるかどうか分からない
ですが、自分の目で世界を見たい・・
と思うことはあります ”

彼女は海外でボランティア活動をする
若者たちに憧れを持っていると。

” なるほど、慈善活動を ”

” ええ、でも、
私にとっては単なる夢です・・ ”

彼女にはやりたい仕事があった。しかし、
半分、諦めている状態。満月が願望成就
を意味するなら、三日月は彼女の思う
可能性の度合いです。

” 私、英語とかも出来ませんし、
専門的な技能もコミュニケーション能力
も無いので・・ ”

彼女にとって手の届かない目標。
潜在意識はそれを ” 月 ” に置き換え、
諦めようとしている。

それが ” 月 ” ならば、遥か彼方にあること
は当然であり、届かなかったからと言って
日常生活に何ら支障はない。

それは、人生の目標ではなく、暗い夜道
( 彼女の進む先 ) を少しだけ明るく
照らしてくれるただの ” 月 ” です。

彼女はありきたりな三日月をぼやっと
眺めている。それが本当は ” 月 ”
ではなく、自分に深く関係するもの
であることを知っているから。

夢の中で、心の中の問題が全く別のもの
に置き換えられるという現象は、しばしば
起こります。

例えば、自分が生きていく上で大切に
していたポリシーに反する行いを
してしまった時、大切なアイテムを
無くしてしまったという夢を作ります。

” 失ったのは愛用の腕時計であって、
これまで守ってきた人生の指針ではない ”
という感情の処理によって罪悪感を
回避するのです。

ただ、それは疑似的な回避策なので
深い喪失感だけは残る。

では、話を戻しましょう。

空に浮かぶ遠すぎる月。しかし、
彼女の中で諦めきれない部分が黒い点
となって表れる。

彼女は、届かない距離にあるものを
手元に引き寄せるために ” 月からの使者 ”
という形で馬を付け加えた。

それは、地球上で生息する実在の
動物であり、月よりは身近な存在です。

とは言え、彼女にとっては、
触れたこともない動物であり、人とは
交わることのない野生の馬。手綱も
鞍も無い馬を乗りこなすなど、
とても難しいことでしょう。

しかし、もし、それにまたがることが
出来たなら、必死でしがみついて、
月まで行けるかもしれない。

彼女は馬を目前にし、高いハードルに
挑戦するか、諦めるかを迷っている。

演出に採用されたものが、なぜ、
野生の馬だったのか? もし、それが
スペースシャトルならもっと楽に月に到達
することが出来たでしょう。どうせなら、
既に月面にいる夢でもよかった。

潜在意識は自覚しているのです。
その演出では ” リアリティ ” が無いと。

描いた結果が ” ファンタジー ” であっても、
そこで扱うテーマが ” リアル ” でなければ
夢を作る意味が無い。なぜなら、私たちは
現実世界で生きているから。

そして、この夢のテーマとは、
” 困難な目標に挑戦するか、否か? ” です。

つまり、野生の馬は、
” 困難な目標 ” を象徴している。

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視線の先に

” ところで、あなたが迷っている間、
馬は、どういった様子でした? ”

” 頭を下にして草を食べていました。
暴れたりしてなかったので、
もしかしたら、よじ登れるかもしれない
と思ったんです ”

” なるほど ”

” それから、突然、頭を上げると、
私の方を見たんです。そこで目覚めました ”

彼女はその時、自分を見る馬の視線が
とても印象的だったと言います。

” 印象とは、どういった? ”

” あの目は・・・
私を待っているようでした ”

さて、今回は紹介した夢は ” 月 ” と ” 馬 ”
という各要素は現実世界に実在するが、
その組み合わせが現実にはありえない
というパターンです。

例えば、月明りの下で馬が草を食べている
という設定ならば現実でもありえる。
もしくは、最初に月の場面を作り、次に
馬の場面に場面転換するという演出も
可能だった。

今回の夢では、月から馬が降りてくる
という少々強引な演出。その理由は、
馬は月の一部であり、延長線上にある
ということを示さなければならない
からです。

” 月 ” と ” 馬 ” が別々に登場してしまうと、
そこに繋がりがありません。
馬に乗れたからといって、最終目標に
近づいたことにはならない。

ゆえに ” 月からの使者 ” という
ファンタジックな演出を現実的な要素の
中に取り入れた。

潜在意識が夢を作る段階で、幻想的設定
を夢に組み込むことには、それなりの
理由があります。理由もなく魔法使いを
登場させたり、楽園を再現したりはしない。

潜在意識には解決しなければならない
現実的な問題があり、そのために映像技法
として ” ファンタジー ” を活用するだけです。

冒頭では、モンシロチョウの話をしました。
それは現実世界にも存在する。しかし、
それが草木の生い茂る場所ではなく、
自宅のリビングで飛んでいたとしたら、
少々、変ですよね。

全くありえないとは言えないが、よくある
光景とも言えない。これは幻想的設定と
言えるのか?

では、それがモンシロチョウではなく、
主に南アメリカに生息する大型の
モルフォチョウなら、どうでしょう?

より、変ですよね?

それが、もし、広げた両手よりも大きな
サイズなら、変を通り越して、ちょっと
怖くなってきます。

さて、どこからがファンタジーで、
どこまでが現実なのでしょう?

つまり、” 現実 ” と ” 幻想 ” の間には、
明確な境界など無いのです。それは、
どれぐらい変なのか、という度合の違い
に過ぎない。

” では、神話に登場するような
ペガサスは実在すると言うのか?”

それは、多分、実在しないでしょう。

あれだけを ” ペガサス ” と
呼ぶのであれば・・

 

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