自分に自信が持てない人へ|カテゴライズという過ち

星座占いや四柱推命、姓名判断など、
多くの占いはパターンと統計データに
よって運命を導き出すというアプローチを
取ります。星座占いならば、私たちは
12のパターンに分類されるわけです。
そこには、12の答えがある。

この人を分類するというアプローチは
至るところで使われている。外国映画では
イタリア系とかユダヤ系というような表現
がよく使われますが、これは人種による
分類です。

また、現代のITやマーティングビジネス
の分野でもビッグデータと言われる多くの
個人情報からその傾向を探るなど、
ここでも人をパターン別に分類し有効活用
しています。

日常生活でも、私たちは意識することなく、
血液型やファッション、生活スタイル、
年齢層、職業、主義主張などで誰かのこと
を分類するのです。

広告

唯一の理解者

分類すること、いわゆる ” カテゴライズ ”
が、なぜ、必要なのでしょう?

それは、人を理解するために合理的だから。

例えば、誰かに知人を紹介してもらう時、
職業や趣味を伝えるだけでも、何となく
その人をイメージ出来ます。有名な某大学
を卒業し、大手商社に勤めている30前半の
男性。趣味はスノーボードと言えば、
それだけでも会うべきか、会わなくても
よいかを決めることが出来る。

テンプレートに人物をはめ込むことで
容易に人物像を評価でき、それは、大抵、
的を得ている。

それについては何も問題が無いように
思えます。その人物がどこにでもよくいる
タイプ、つまり、マジョリティである
限りは・・

その人物とは、あなたです。

他者を評価する時 ” カテゴライズ ” は
一見すると、有効に機能します。
しかし、テンプレートに押し込まれる側、
評価される側の立場から見た時、それは、
途端に機能不全に陥る。

次の質問について考えてみてください。

あなたは既存のテンプレートに綺麗に
はまってしまうマジョリティですか?

もちろん答えは、” NO!” ですよね。

あなたにはこれまで送ってきた人生がある。
そこで経験してきたこと、得た知識、
培ってきたもの、それが ” 個性 ” となって
今のあなたを支えている。

誰も、あなたの ” 個性 ” を100%理解して
いる人はいない。それが配偶者や両親、
心理学者や、ビッグデータを駆使した
スーパーコンピューターだったとしても。

それを理解できるのは、
唯一、あなた自身だけです。

ゆえに、誰かに100%の理解を求め続ける
人は、必ず、途中で挫折を味わうことに
なる。誰もが、簡単に理解できるほど、
薄っぺらな存在ではない。

カテゴライズの利点は、人を素早く理解
出来ることです。そして、欠点は、それが
表面的な理解に過ぎないということです。

なので、カテゴライズしたからといって、
その人を本当の意味で理解したということ
にはならない。

例えば、人種や国籍によって起こる偏見や
差別の問題も結局は、人をカテゴライズ
するところから始まっているのです。

日本に旅行に来た外国人がマナーが悪かった
としても、その国の人全員がマナーを
守らないとは言えないわけです。しかし、
私たち日本人は ” どこどこの国はマナーが
悪い ” と国ぐるみで批判をする。

カテゴライズによる合理的な理解が裏目に
出て、こうした偏見を生み出すのです。

人類最初の人

星座占いでは、人は12のタイプに分類
できるわけですが、実際は、同じ御羊座で
あっても、犯罪者になる人もいれば成功者
になる人もいる。人によって個人差が出る。

パターンに分類される段階で ” 些細な違い ”
として端数処理されてしまう ” 個人差 ” が、
実は人生に大きな影響を与えている。
それは、パターンの枠を覆すほどの影響です。

もし、そうならば、果たして分類する必要
があるのか・・こう考えることは出来ない
でしょうか。

もし、星座や誕生日によって、予め運命が
決まっているというなら、見過ごされた
” 個人差 ” には、その運命を覆す力がある
ということになります。

つまり、その人の個性こそが、
” 道を切り開く鍵 ” だと。

あなたの個性は星座や誕生日、血液型など、
統計データの複合体ではありません。
それぞれのカテゴリが重なった交差領域に
あなたが立っているわけでもない。

あなたは、最初から一つの存在です。

それを見ず知らずの誰かが、都合の良い
視点で勝手にカテゴライズし、タイプ別に
分類しているだけなのです。あなたが
最初に存在し、カテゴリーとは後から
付けられた ” タグ ” です。

人類最初の人が聖書に登場するアダム
ならば、アダムは男性でしょうか?

男性でも、女性でもありません。

イヴが誕生した瞬間に、アダムは ” 男性 ”
という後から作られたカテゴリーに
分類されたのです。

” 男性 ” というカテゴリーに合わせて、
アダムが作られたのではなく、二人の
違いを表す必要が出てきたので、それに
応じて ” 男性 ” と ” 女性 ” という二つの
概念が後に生まれた。

” カテゴリー ” とは定義であって、存在
ではありません。定義とは、単なる
社会的ルールであり、約束事です。

そして、” 社会 ” とは ” 個 ” の集合です。
個とは存在、ゆえに、存在よりも先に
定義が生まれることはない。

広告

アノマリーの先に

個人を識別するためにより精度の高い統計
を行おうとすればするほど、変数は多く
なっていきます。変数が増えていくほど
母数が減っていき、やがて、一人の人間に
辿り着く。

” あなた ” と言う。

しかし、この時点で、もはやそのデータは
” 統計 ” とは呼べない。あなたと全く同じ
人など世界には一人もいないから。

” アノマリー ” という言葉があります。
普遍的な法則から見て、理論的に説明
出来ない異常値を示すデータ。つまり、
例外的個体。

あなたは、その ” アノマリー ” です。
いえ、誰もがそうです。

統計学の厳密な定義から言えば、
” 例外的個体 ” という言い方は正しくない
かもしれませんが、筆者が伝えたいのは、
誰しもが他人と共通する部分を持ちながら、
例外的部分を持っており、その例外的部分
こそが個々の人生を支配しているという
ことです。

社会の視点では端数処理されるのは、
例外的部分でしょう。しかし、個の視点
では、そうではない。

今、現代社会はあらゆることがデータに
置き換えられます。誰かが一箇所でより
多くを管理するため。

また、私たちの生活にもそれは深く浸透
しています。多くの情報を限られた時間で
処理するため私たちもその利便性を利用する。

仕事を円滑にし、生産性を上げるため、
低コストでより多くを得るため、
観たい動画を素早く見つけるため、
自分と相性の良い交際相手を選ぶため、
全てを ” 社会の視点 ” で評価し、その裏で
” 個の視点 ” が忘れ去られていく。

人は、結局、” 個 ” です。

個の視点を失えば、そこに残るのは、
感情が無視され、合理的な目的だけで動く
システム化した冷たい世界だけです。

しかし、私たちは ” 個 ” であることを
やめることは出来ないのです。それは死を
意味するから。

その狭間で、必ず ” 歪 ” が生まれる。

世の中の利便性が高まるほど、より厳格に
組織化されるほど、より利益が生み出せる
仕組みが整うほど、人々はその恩恵を享受
しながらも、心のどこかで虚しさを感じる
ようになる。

その虚しさを埋めるために、より合理的な
システム化を急ぐのが、今、私たち現代人
がしていることです。しかし、その方法で
ぽっかりと開いた穴は、永久に埋まらない。

人が自信を失う瞬間とは、カテゴリーの
中で評価された時です。そして、その評価が
悪かった時。人々は自信を得るために、
カテゴリーに適合した存在になろうとする。

しかし、それが本来の自分とはかけ離れた
存在だとしたら・・・そこにあるのは、
” 空虚な自信 ” だけです。

自分を型にはめないでください。

仕分けされやすいように誰かの用意した
カテゴリーという箱の中に、自ら入ろうと
しないでください。

目まぐるしく合理化されていく世の中を
生きながら、あなたの大切にしているもの
を落としてしまわないように、それを
しっかりと握って、手放さないように。

あなたはマジョリティでも、マイノリティ
でもありません。

あなたは、” あなた ” です。

 

関連記事


読む

読む

広告

 

この記事をシェアする