思春期の若者がスピリチュアルにはまる理由

私たちの最も身近にある神秘 ” 夢 ”

夢に関心を持つことは悪いことでは
ありません。それは、心の探求であり、
自己観察の一つの手段です。

ただ、状況によっては弊害になって
しまう可能性もある。

思春期の若者のように、まだ、自分の
意思を確立出来ていない世代にとっては
” 夢 ” の持つ神秘性は諸刃の剣です。

一人の少女が、ある晩、不可思議な
夢を見る。

深夜、寝室に入り込んだ隙間風で揺れる
カーテンに幽霊を見るように、少女は
曖昧で意味深げな夢の中に ” 何か ” を
見るのです。

悩める思春期の少女に一つの ” 謎 ” が
与えられ、彼女は ” 答え ” を求めて
スマホを起動する。

見たいものだけを見せるインターネットの
検索アルゴリズムによって、少女は
神秘主義の世界を知り、興味本位で傾倒
していく。

やがて、彼女は自ら作り出した ” 幻想 ” に
翻弄されるようになる。

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負のスパイラル

たまに、筆者の元にかなり若い方から、
夢に関する相談メールが届くことがあります。

年齢は伏せられていますが、言葉使いや
文章の構成から、何となく10代前半ぐらい
だと推測をしています。

今ではスマホを持っているお子さんも
いますから、それぐらいの年齢ならば、
メールを打つことは可能だろうと。

普通に、ご挨拶程度の文章をやり取り
している分には、年齢については、
それほど問題にはならないのです。

夢の内容に、学校の描写などが含まれて
いたなら ” ああ、この人は中学生か・・ ”
と察することが出来るのですが、

そうでなければ、途中までメールの相手が
子供であると気づかないこともしばしば
あります。

セッション中、より深く、心の問題に
踏み入れようとした時、ようやく
依頼者の年齢を察することが出来るのです。

今の子供は表面的には大人のような言葉使い
を上手に使いこなすのですが、質問の意図を
理解し、それを文章で答えるという段階で
自分の考えや感じた事を正確に伝える力が、
やはり、大人に比べて未熟なのです。

また、子供は思考の中で、
よく ” ショートカット ” をします。

例えば、お葬式の夢を見た少女が、筆者に
唐突にこう尋ねるのです。

” 私は、どうしたら死なずに済みますか? ”

つまり、彼女は、夢で見たのは自分の
お葬式で、それが実際に起こる確定事実
であるという前提で質問しているのです。

筆者は、いくらか飛び過ぎている話を
整理するために次のように質問しました。

” それは、誰のお葬式だったのですか? ”

少女は、” 私のです ” ときっぱりと答える。

しかし、夢の内容を細かく質問していくと、
彼女は遺影を確認してもおらず、棺桶の中
を見てもいない。

その後、彼女は、
” 私のお葬式だと思っていた ”
と発言を修正するのです。

また、それが、なぜ現実に起こるのか?
という根拠をすっ飛ばして ” 死への恐怖 ”
だけが彼女を支配している。

結局、この夢は、彼女の恐怖心がお葬式の
夢として描かれているだけなのですが、
思春期の子供たちは、こうした短絡的な
思考によって幻想に囚われてしまう。

また、それが悪夢として現れることで
精神面をより悪い方向へ導くきっかけに
なってしまうという ” 負のスパイラル ”
に陥る。

近年のインターネットを介した
スピリチュアリズムの普及や神秘主義的
思想は、物事を表面的にしか理解出来ない
子供たちにとっては、誤解を生じやすく、
ある意味 ” パンドラの箱 ” のようなものです。 

大人にとっては単なるエンターティメント
として受け流すことが出来たとしても、
子供たちにとっては、手に余る危険な薬品
なのです。

” 直感力 ” という弊害

取り分け、予知夢は子供たちを神秘主義に
誘い込む魅惑的な現象の一つです。

それは、リアルであったり、
意味深げな設定の夢として作られる。

自分の見た夢の内容と現実で起こる出来事に
何らかの共通点を見つけた子供は、ある種の
恐怖感と共に、自身に備わった特別な能力に
興奮する。

また、動画やテレビで見たことのある
都市伝説のように誰かの体験した事
ではなく、あくまで自らが体験するもの
ですから、そのリアリティは強い刺激を
与えるでしょう。

皮肉にも、内向的で直感力が鋭い子ほど、
夢が現実世界とリンクしていることに
感覚で気づきやすい。

しかし、潜在意識が夢の中で、なぜ、
不可思議な演出を行っているのか、
その仕組みまでは、まだ、未熟な彼らには
理解出来ないのです。

( 正確には、理解出来ないのではなく、
理解するために時間をかけて考えるという
忍耐力が育っていない )

単純に、金縛りの最中に見た幻覚に怯え、
それをすぐにテレビで見た心霊現象に
結び付けたり、悪夢を見て、ネット検索で
得た扇動的な情報に惑わされたりしてしまう。

夢など覚えていないと言って、元気に
学校に行く子供の方が、余計な心配を
抱えずに済むわけですから、ある意味、
直感力が鋭い子は不幸なのかもしれません。

直感的に物事を理解出来るというのは、
一見すると長所のようにも見えますが、
それが感覚的な理解であるため、
人に伝える段階で論理的な組み立てが
出来ないというジレンマを生み出します。

” なぜ、私の言うことが分からないん
だろう? ”

” 誰も、私の言うことを聞いてくれない ”

それによって、自分は周りの人に理解
されていないという不満を心に抱える
ことになる。

場合によっては、理解不足の周囲の人たち
を蔑むことで不満を解消しようとする子も
います。

” 周りの人は、みんな馬鹿に違いない ”

しかし、この不和は周囲の人たちの理解力
が乏しいからではなく、単に理解して
もらうための ” 伝える力 ” が自分に無い
ということに本人は気づかないのです。

感覚と違って ” 伝える力 ” は、社会生活
を営みながら育んでいくものですから、
身に着くのは、ずっと後です。

無論、大人の私たちには感じたことを
理論的に分析し伝える力がありますから、
そういったジレンマは起こらない。

故に、子供が何に躓いているのかが理解
出来ない。よって両者のコミュニケーション
は決裂する。

ディスプレイの中の ” 神 “

まだ、人生経験の浅い子供がオカルトや
スピリチュアリズム、神秘主義に傾倒して
しまう理由は、

日頃から感じている漠然とした不安や不条理
といった子供にとっては言葉で説明すること
が出来ない ” 得体の知れないもの ” に、唯一
それらしき ” 得体 ” を与えることが出来るからです。

古代、人類が理解出来ない自然の神秘や
驚異を神や信仰と結び付けてきたのと
同じように、彼らも説明出来ない事象に
答えを与えるためにスピリチュアリズムを
利用するのです。

私たち大人にとっては、理論的に理解し説明
出来ることであっても、彼らにとっては人生
に立ちはだかる不条理の全てが不可思議な
事象です。

そして、彼らは自分の能力不足によって、
それが理解出来ないのではなく、元々、
人知を超えたものだから理解出来ないと考える。

自分の理解力は十分足りているという前提で
思考を行います。大人には当たり前のように
見えていることも彼らには見えていない。

彼らは、自分に見えていない領域があるとは
考えず、そこに領域など初めから無いという
認識なのです。

子供たちに見るこうした誤認識は、
大人の世界でも実際にあります。

例えば、心理学など無かった時代では、
精神疾患を抱えた人を悪魔に憑りつかれた
と言って、祈祷師にお祓いをさせたり、
古代、自然災害を神の怒りとして、生贄を
捧げるという人身御供の風習が世界各地に
ありました。

現代では、全く荒唐無稽の馬鹿げた理屈
ですが多くの大人たちが、それを大真面目
に信じていた。

古代の人は理解出来ない未知の領域を理解
するために、その全てに答えを与える
オールマイティな存在として ” 神 ” や ” 悪魔 ”
が必要だった。

それを理論的に説明出来ないのですから
” 未知なる者の意思 ” と呼ぶしかないのです。

子供たちが、彼らにとっての ” 未知なる領域 ”
を感じ取った時に、それが神秘主義の思想に
結びつくのは、古代人が自然災害を神の怒り
に結び付けたプロセスと同じです。

つまり、インターネット上に存在する
スピリチュアリズムは、子供たちにとっては
理解不能の世界を理解するための ” 答え ” を
与えるものであるかのように見えている。

しかし、彼らが見た
ディスプレイの中の ” 神 ” は、
誤った答えを提供しているのです。

それは、発信者が誤った情報を提供している
というよりは、不適切な形で伝わっている
と言った方がいいかもしれません。

子供たちの未熟さと、インターネットの
アルゴリズムによって生み出されてしまった
それは、大人にフォローされることもなく
零れ落ちていく彼らの ” 心の拠り所 ” に
なっている。

それは、一種の ” 救済 ” と言うことも
出来ますが、誰もが意図せずして、
ネット上に作り上げられてしまった歪な形の
セーフティネットなのです。

そして、大人たちのほとんどは、この状況を
理解していない。私たち大人にも
” 未知の領域 ” はあるのです。

 

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