私たちの最も身近にある神秘 ” 夢 ”
夢に関心を持つことは悪いことでは
ありません。それは、心の探求であり、
自己観察の一つの手段です。
ただ、状況によっては弊害になって
しまう可能性もある。
思春期の若者のように、まだ、自分の
意思を確立出来ていない世代にとっては
” 夢 ” の持つ神秘性は諸刃の剣です。
*
一人の少女が、ある晩、不可思議な
夢を見る。
深夜、寝室に入り込んだ隙間風で揺れる
カーテンに幽霊を見るように、少女は
曖昧で意味深げな夢の中に ” 何か ” を
見るのです。
悩める思春期の少女に一つの ” 謎 ” が
与えられ、彼女は ” 答え ” を求めて
スマホを起動する。
見たいものだけを見せるインターネットの
検索アルゴリズムによって、少女は
神秘主義の世界を知り、興味本位で傾倒
していく。
やがて、彼女は自ら作り出した ” 幻想 ” に
翻弄されるようになる。
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負のスパイラル
たまに、筆者の元にかなり若い方から、
夢に関する相談メールが届くことがあります。
年齢は伏せられていますが、言葉使いや
文章の構成から、何となく10代前半ぐらい
だと推測をしています。
今ではスマホを持っているお子さんも
いますから、それぐらいの年齢ならば、
メールを打つことは可能だろうと。
普通に、ご挨拶程度の文章をやり取り
している分には、年齢については、
それほど問題にはならないのです。
夢の内容に、学校の描写などが含まれて
いたなら ” ああ、この人は中学生か・・ ”
と察することが出来るのですが、
そうでなければ、途中までメールの相手が
子供であると気づかないこともしばしば
あります。
*
セッション中、より深く、心の問題に
踏み入れようとした時、ようやく
依頼者の年齢を察することが出来るのです。
今の子供は表面的には大人のような言葉使い
を上手に使いこなすのですが、質問の意図を
理解し、それを文章で答えるという段階で
自分の考えや感じた事を正確に伝える力が、
やはり、大人に比べて未熟なのです。
また、子供は思考の中で、
よく ” ショートカット ” をします。
例えば、お葬式の夢を見た少女が、筆者に
唐突にこう尋ねるのです。
” 私は、どうしたら死なずに済みますか? ”
つまり、彼女は、夢で見たのは自分の
お葬式で、それが実際に起こる確定事実
であるという前提で質問しているのです。
*
筆者は、いくらか飛び過ぎている話を
整理するために次のように質問しました。
” それは、誰のお葬式だったのですか? ”
少女は、” 私のです ” ときっぱりと答える。
しかし、夢の内容を細かく質問していくと、
彼女は遺影を確認してもおらず、棺桶の中
を見てもいない。
その後、彼女は、
” 私のお葬式だと思っていた ”
と発言を修正するのです。
また、それが、なぜ現実に起こるのか?
という根拠をすっ飛ばして ” 死への恐怖 ”
だけが彼女を支配している。
結局、この夢は、彼女の恐怖心がお葬式の
夢として描かれているだけなのですが、
思春期の子供たちは、こうした短絡的な
思考によって幻想に囚われてしまう。
また、それが悪夢として現れることで
精神面をより悪い方向へ導くきっかけに
なってしまうという ” 負のスパイラル ”
に陥る。
*
近年のインターネットを介した
スピリチュアリズムの普及や神秘主義的
思想は、物事を表面的にしか理解出来ない
子供たちにとっては、誤解を生じやすく、
ある意味 ” パンドラの箱 ” のようなものです。
大人にとっては単なるエンターティメント
として受け流すことが出来たとしても、
子供たちにとっては、手に余る危険な薬品
なのです。
” 直感力 ” という弊害
取り分け、予知夢は子供たちを神秘主義に
誘い込む魅惑的な現象の一つです。
それは、リアルであったり、
意味深げな設定の夢として作られる。
自分の見た夢の内容と現実で起こる出来事に
何らかの共通点を見つけた子供は、ある種の
恐怖感と共に、自身に備わった特別な能力に
興奮する。
また、動画やテレビで見たことのある
都市伝説のように誰かの体験した事
ではなく、あくまで自らが体験するもの
ですから、そのリアリティは強い刺激を
与えるでしょう。
*
皮肉にも、内向的で直感力が鋭い子ほど、
夢が現実世界とリンクしていることに
感覚で気づきやすい。
しかし、潜在意識が夢の中で、なぜ、
不可思議な演出を行っているのか、
その仕組みまでは、まだ、未熟な彼らには
理解出来ないのです。
( 正確には、理解出来ないのではなく、
理解するために時間をかけて考えるという
忍耐力が育っていない )
単純に、金縛りの最中に見た幻覚に怯え、
それをすぐにテレビで見た心霊現象に
結び付けたり、悪夢を見て、ネット検索で
得た扇動的な情報に惑わされたりしてしまう。
夢など覚えていないと言って、元気に
学校に行く子供の方が、余計な心配を
抱えずに済むわけですから、ある意味、
直感力が鋭い子は不幸なのかもしれません。
*
直感的に物事を理解出来るというのは、
一見すると長所のようにも見えますが、
それが感覚的な理解であるため、
人に伝える段階で論理的な組み立てが
出来ないというジレンマを生み出します。
” なぜ、私の言うことが分からないん
だろう? ”
” 誰も、私の言うことを聞いてくれない ”
それによって、自分は周りの人に理解
されていないという不満を心に抱える
ことになる。
場合によっては、理解不足の周囲の人たち
を蔑むことで不満を解消しようとする子も
います。
” 周りの人は、みんな馬鹿に違いない ”
しかし、この不和は周囲の人たちの理解力
が乏しいからではなく、単に理解して
もらうための ” 伝える力 ” が自分に無い
ということに本人は気づかないのです。
感覚と違って ” 伝える力 ” は、社会生活
を営みながら育んでいくものですから、
身に着くのは、ずっと後です。
無論、大人の私たちには感じたことを
理論的に分析し伝える力がありますから、
そういったジレンマは起こらない。
故に、子供が何に躓いているのかが理解
出来ない。よって両者のコミュニケーション
は決裂する。
ディスプレイの中の ” 神 “
まだ、人生経験の浅い子供がオカルトや
スピリチュアリズム、神秘主義に傾倒して
しまう理由は、
日頃から感じている漠然とした不安や不条理
といった子供にとっては言葉で説明すること
が出来ない ” 得体の知れないもの ” に、唯一
それらしき ” 得体 ” を与えることが出来るからです。
古代、人類が理解出来ない自然の神秘や
驚異を神や信仰と結び付けてきたのと
同じように、彼らも説明出来ない事象に
答えを与えるためにスピリチュアリズムを
利用するのです。
*
私たち大人にとっては、理論的に理解し説明
出来ることであっても、彼らにとっては人生
に立ちはだかる不条理の全てが不可思議な
事象です。
そして、彼らは自分の能力不足によって、
それが理解出来ないのではなく、元々、
人知を超えたものだから理解出来ないと考える。
自分の理解力は十分足りているという前提で
思考を行います。大人には当たり前のように
見えていることも彼らには見えていない。
彼らは、自分に見えていない領域があるとは
考えず、そこに領域など初めから無いという
認識なのです。
*
子供たちに見るこうした誤認識は、
大人の世界でも実際にあります。
例えば、心理学など無かった時代では、
精神疾患を抱えた人を悪魔に憑りつかれた
と言って、祈祷師にお祓いをさせたり、
古代、自然災害を神の怒りとして、生贄を
捧げるという人身御供の風習が世界各地に
ありました。
現代では、全く荒唐無稽の馬鹿げた理屈
ですが多くの大人たちが、それを大真面目
に信じていた。
古代の人は理解出来ない未知の領域を理解
するために、その全てに答えを与える
オールマイティな存在として ” 神 ” や ” 悪魔 ”
が必要だった。
それを理論的に説明出来ないのですから
” 未知なる者の意思 ” と呼ぶしかないのです。
*
子供たちが、彼らにとっての ” 未知なる領域 ”
を感じ取った時に、それが神秘主義の思想に
結びつくのは、古代人が自然災害を神の怒り
に結び付けたプロセスと同じです。
つまり、インターネット上に存在する
スピリチュアリズムは、子供たちにとっては
理解不能の世界を理解するための ” 答え ” を
与えるものであるかのように見えている。
しかし、彼らが見た
ディスプレイの中の ” 神 ” は、
誤った答えを提供しているのです。
それは、発信者が誤った情報を提供している
というよりは、不適切な形で伝わっている
と言った方がいいかもしれません。
子供たちの未熟さと、インターネットの
アルゴリズムによって生み出されてしまった
それは、大人にフォローされることもなく
零れ落ちていく彼らの ” 心の拠り所 ” に
なっている。
それは、一種の ” 救済 ” と言うことも
出来ますが、誰もが意図せずして、
ネット上に作り上げられてしまった歪な形の
セーフティネットなのです。
そして、大人たちのほとんどは、この状況を
理解していない。私たち大人にも
” 未知の領域 ” はあるのです。
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