主観とは?|私たちに見えていないもの

人には ” 主観 ” というものがあります。

言わば、その人が現実世界を見るときに使う
” フィルター ” のようなものです。

フィルターを通して、
人は現実世界を眺めている。

美しいものだけを通すフィルターならば、
世界は美しく見える。

敵をチェックするためのフィルターならば、
世界は敵だらけになる。

自分と同じ価値観だけを通すフィルターならば、
世界はとても狭くなる。

そして、この ” フィルター ” は、
一生、外すことが出来ない。

と言うより、誰も外そうとは思わない。

なぜなら、誰も自分がフィルター越しに
世界を眺めているとは思っていないからです。

誰もが、自分の見ているものは、
裸眼で捉えた世界だと思っている。

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視野の外側にあるもの

偏った見方、固定観念のようなものは、
全ての人が持っています。

無論、筆者も例外ではありません。

自分の考えのどれが固定観念なのかを
判別することは出来ない。

誰にも。

それが、固定観念であると疑った時点、
気づいた時点で、もはや、
” 固定観念 ” では無いからです。

例えば、結婚をしなければ、
幸せになれないと考えている
一人の女性がいたとしましょう。

彼女は結婚をした場合の人生と、
しなかった場合の人生について考え、
比較した結果、するべきだという結論に至った。

無論、結婚をしなかった場合の
幸せについても考えたでしょう。

この場合、彼女の
” 結婚しなければ幸せになれない ”
という考えは固定観念ではありません。

彼女の中に ” if ” があるからです。

*

本当の意味での固定観念とは、
” 別の選択肢 ” という形で
知ることすら出来ないものです。

例えば、彼女が幸せをつかむため
婚活に時間を割いて生涯の伴侶を
探しているとしましょう。

あちこちのパーティーに出席し、
候補となる男性を絞っていく。

しかし、彼女は知らない。

自宅のすぐ近くに素敵な好青年が
住んでいることに。

二人の生活リズムが違うため、
一度もすれ違うことなく、
お互いの姿を見ていないのです。

もし、彼女がその事実を知れば、
犬の散歩の時間帯を変えるとか、
町内のイベントに参加するということも出来ますが、
彼女は男性の存在を知らないので、
自分の生活スタイルを変えようとは思わない。

事実を知らなくとも、
可能性として考えることぐらいは出来そうですが、
その想定は彼女の眼中には無いのです。

この時の彼女は、
” 自宅の近くにいい男なんているはずない ”
という考えすら頭に浮かばない。

そして、何気にスマホで次の婚活パーティーの
スケジュールをチェックする。

自分が気づいていないことに、
気づくことは出来ないのです。

それぞれの ” 真実 “

自分には固定観念は無いと判断するには、
固定観念が自分の中にあるのか無いのか、
チェックしなければならないわけですが、

どうやってチェックするんでしょう?

視野に入っていないものが ” 固定観念 ” であるなら、
それを見つけることは不可能。

見つけた時点で、それは
すでに視野の範囲内にあるわけです。

もし、自分には固定観念が無いと思うなら、
その認識は幻想です。

固定観念を認識することは出来ない。

*

誰もが自分の見ている世界が真実だと考える。

しかし、実際、人は、
それぞれ別々の景色を見ながら生きている。

それは、日常では、あまり表面化しませんが、
時折、相違として表れるのです。

例えば、結婚して、
一つ屋根の下に暮らすことになった
新婚夫婦の間に、それは起こる。

お互いに、” 真実 ” だと思っていたことが
ガラガラと崩れていく。

自分の今まで食べていた料理の味付けが、
どうも薄味らしいということに気づく。

自分が寝ている時に、かなり大きないびきを
かいていることを初めて知る。

お風呂上りにパンツ一丁でビールを飲む姿が、
人に不快感を与えていることに初めて気づく。

まさに、お互いに想定すらしていなかった
ことであり、ある意味、異文化の衝突です。

*

例えば、選挙の時など、
人々は特定の政治団体に票を入れるわけですが、
一票に込められた思いは人それぞれです。

インターネットではネガティブキャンペーンや、
過激な意見で人々を煽ろうとする人たち、
真面目に議論し合う人たち、様々です。

彼らの思い描く” 日本の政治 ” はバラバラです。

ネット上で行われている政治の議論は、
それぞれが自分の主張こそが真実だと
信じて押し付け合っている。

誰かが誰かを論破したからと言って、
それが、一体、何なのでしょう?

次の日には、別の場所で同じ議論が繰り返され、
過去の議論は、上書きされ、埋もれて消えるのです。

私たちの頭の中にある ” 真実 ” とは、
とても個人的でちっぽけなものです。

善き世界、悪しき世界

人を疑うことを知らない人は、
世の中の人々の誰もが善良に見えるのでしょう。

しかし、疑うことに慣れてしまっている人は、
世の中の人々が全員、
自分を騙そうとしているように見える。

同じ世界を見ているはずなのに、
その人の価値観、人生観によっては、
その後の行動や生き方に違いが出る。

*

ある一人の男性が家にいる。

彼が人を疑わない心を持っているなら、
外の世界は善良な世界に見える。

外出したくなるでしょう。

しかし、疑う心を持っていれば、
リスクを回避するために外出を控えるでしょう。

フィルターによって行動に違いが出る。

誰もが、自分は裸眼で世界を見ている
と思っていますから、自分の行動は、
全て、真実に基づいた選択だと信じているわけです。

しかし、その選択は、
それ以外の多くの選択肢の一つに過ぎない。

善良な心を持つ彼は、外出し、
外の世界で悪人に騙され、金を盗まれてしまう。

疑いの心を持つもう一人の自分が、
それを指さし、鬼の首を取ったかのように
こう言うのです。

” そら見たことか。外の世界は危険なんだ。
今すぐ、家に戻るべきだ! ”

しかし、
善良な心を持つ彼は次のように言い返す。

” 今日出会った人間は、まだ一人目だ。
それが世界の全てなのか? ”

果たして、彼にとって、
正しい行動とはどれだったのでしょう?

家にいれば、お金を騙し取られることは
無かったというのも真実です。

また、外の世界には様々な可能性が
広がっているのも真実です。

真実とは、個人のためのローカルルールに過ぎない。

決して法律のように誰に対しても
効力のある普遍のルールではないのです。

あなたの信じるものは、
本当に唯一の選択なのでしょうか?

それは、本当に ” 真実 ” なのでしょうか?

 

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