人が生きる意味|何もかもが無意味に思えたら

” 生きることに意味は無い ” という考えがあります。

人には、それぞれの人生観、価値観というのがありますから、それらは尊重すべきでしょう。

ただ ” 自分なんて存在する価値は無い ” とか ” 人生は無意味だ ” などと思う人がいるなら、次の疑問に答えられるか、考えてみてください。

” それが無意味である根拠とは? ”

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数学上の不確かさ

夢解釈は、見方によって色々な回答を導き出せます。時には理屈をつけて、自分に都合の良い ” 答え ” を得ることも出来る。

しかし、数学の場合は答えはもっと明確で、公式を使えば誰が解いても同じ回答になるはず・・

例えば、数学の世界では ” 素数 ” というものがあります。素数とは、1でしか割れない数字のことを言います。

2、3、5、7、11、13・・

数字を順番に数えていくとしたら、この素数の出現するタイミングはランダムで何の法則も無い。全くランダムなので、この性質を利用してインターネットの暗号技術にも活用されています。

ところで ” 素数はランダムに出現する ” と言っても、素数の並び方がランダムだということを確定事実として証明することは出来ないのです。

なぜなら、数字は永遠に続くのですから。

もし、数字が0から一兆までしか無いなら、全ての素数を調べることで法則があるのか無いのかチェックすることも出来ますが、数字は無限にあるので調べ切ることも出来ない。

つまり ” 素数はランダムに出現する ” という結論は ” 調べた範囲では ” という推測でしかないのです。

逃れることの出来ない矛盾

数学の話はさておき、” 人生には意味は無い ” という主張は、” 宇宙に知的生命体はいない ” と言うのとあまり変わらないと思いませんか?

果たして、全ての人生を検証したわけでもなく、自分もまだ人生を終えていない人が、” 生きることに意味はない ” と断言出来るのでしょうか?

誰にも、無意味であることを証明することは出来ない。

ここで疑問です。

仮に ” 生きる意味 ” という不確かであるはずのものを ” 無意味 ” と言い切ってしまう人がいるならば、その人は、選択をしていますよね?

” 実際はどうか分からないが、自分は無意味だと思う ” という選択を。

なぜ、数ある可能性の中で ” 無意味 ” を選択したのでしょう? 選択すること自体が無意味であるはずなのに・・

生きることが無意味だと強く信じるほど、その考えに価値を見出していることになります。

つまり、その時点で、彼は一つの考えに価値を見出し、それを選択し、信じることに意味があると考えている。

皮肉にも、彼自身が生きることの意味を実践してしまっているわけです。

もしかすると、次のように言うかもしれません。

” 選択に意味があるというなら、俺は何も選択しないぞ ”

それも結局は ” 選択をしない ” という選択をしたわけですから、そこに価値があると信じる心があるわけです。

また、他人の意見を受け入れたくないという反発する気持ちは、まさに 自身を信じる心であり、自身の存在価値を肯定する姿そのものです。

どのみち、人生が無意味だと言う人は、この矛盾から逃れることは出来ない。

生きることに意味は無いと断言することは、裏を返すと、ひねくれた一つの自己肯定なのです。

それは、結局、無意味であるという実証にはならず、無意味であるということにしておきたいという個人的願望でしかない。

それを選択することでその人自身が、自分の人生の価値を決めているに過ぎない。

” 勝手に決めつけるな!”

もし、ここまで読んで反論したくなったとしたら、それこそが ” 自己肯定 ” であり、命の輝きです。

答えを求めることの代償

とは言え、世の中には、人生において生きる意味が見いだせないという人は、実際に存在します。

彼らは ” 人生に意味など無い ” という考えすら持たない。生きる気力を失い全てを放棄した人々。そして、自ら命を絶つ人。

先ほど筆者が行った論証では、彼らを救えないのです。

ひねくれ者のニヒリストに対する反論にはなるかもしれないが、本当の絶望を体験した人にとっては効果はない。

まだ、言い返してくるなら救いはある。

言い返された筆者が顔を真っ赤にして恥をかいているのを見て、その人の顔に生気が戻るなら、いくらでも恥をかきます。

でも、言い返してはこない・・

” 生きる意味とは? ”

この質問に答えられるのは、多分、人生を全うした後でしょう。いや、それですら不確かです。

もし、答えられるなら、人類はどこから来て、どこへゆくのか、存在とは何か、宇宙とは何か、という今だ問われ続けている哲学的難問にも答えられるでしょう。

つまり、それを知っている人は地球上に存在しない。そもそも、それを生きているうちに見つけること自体が不可能なのです。

だから、誰もが間に合わせの答えを用意して生きている。

愛する家族がいるなら、家族のため。貧しい生活から抜け出すため。誰かを見返してやりたいという復讐心。社会のため、人道のため。

無論、この間に合わせの ” 答え ” で100%納得しているわけではない。心のどこかで自分に言い聞かせている。” これが答えのはずだ ” と。

多分、多く人がそうでしょう。

完全なる正解を得ることが永久に出来ないことに気づかぬまま、真面目な人は、それを求め続け、疲れ果て気力を失っていく。

見せかけの ” 諦め “

生きるに値する正解が無ければ、生きていられないと言うなら、そして、全ての人が ” 生きる意味 ” など考え出したら、人類は絶滅するでしょう。

裏を返せば、人類が長い歴史の中で今も続いているということは、人間がいかに ” いい加減な考え ” で生き抜いてきたのか、という事実を示している。

その ” いい加減さ ” が、私たちの命を繋いでいるのです。

野生動物に思想などありません。神の存在について考えることもない。将来について考えることも、自己矛盾に
悩むことも、答えなき問いを追求することもない。

彼らは、ただ、その瞬間を生きている。動物たちに、何か ” 罪 ” でもあるのでしょうか?

” いい加減な考え ” で生きることの何が悪いのでしょう?

1976年公開のアメリカ映画「タクシードライバー」は、マンハッタンでタクシードライバーとして働く若者を描いた物語です。

ドラッグや売春、犯罪といった堕落した夜の街を客を拾うために車を走らせる。彼もまた、人生に意味を見いだせない一人でした。

彼は、同じ職場で働く年配の男性に悩みを打ち明け、相談します。その時、男性は次のように言った。

” あまり、深く考えるな ”

面倒なことを相談された大人が、悩める若者に思いつきで適当なアドバイスをしたようにも見える場面。筆者には、このアドバイスに映画製作者の思いが込められている気がします。

それは思いつきではなく、考え抜いた先に ” 答え ” が無いことを知った上で、今、闇に落ちようとしている一人の若者を救うとしたら、このセリフ以外なかった・・ということだったのでしょうか。

その後、若者は、とある事件を起こし刑務所に入ります。それから刑期を終え、再びタクシードライバーとして働く日々。

ラストシーン、バックミラーに写る彼の眼差しに、もう、昔のような陰鬱さ、険しさはなく、肩の荷が降りたような穏やかな表情。

彼は、一体、何を悟ったのか・・

” 悟り ” と ” 諦め ” は似ている。
” 諦め ” と ” 絶望 ” は違う。

人を追い詰めるのは ” 絶望 ” であって、決して ” 諦め ” ではないのです。

” 諦め ” とは苦痛から解放されることであり、その時点で目的は達成されている。つまり、それ以上何かする必要はない。

何かするとしたら、それは、刑期を終えた出所当日に、塀をよじ登って刑務所から脱走するようなものです。

全てを捨てられる思うなら、その時点で ” 全てを失った ” という実績を求める必要もありません。” 悟り ” を体験したかどうか、そこに拘る必要もない。

それが何であれ、” 目的 ” らしきものがあるなら、そこには ” 生 ” への執着があるのです。表面上 ” 諦め ” に見せかけているだけで。

もし、今、絶望しているというなら、裏を返せば、それもまた ” 生 ” への執着です。執着しているからこそ、苦しいわけですから。

つまり、それを理由にすることが出来ない。

要するに、それが ” 絶望 ” ならば理由にはならず、” 諦め ” ならば、必要なくなるのです。

さて、何で、そう思ったんでしたっけ?

 

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