例えば、誰かを好きになったとします。
最初は、ただ、
純粋に好きだったのです。
しかし、いつしか、他の異性と
喋っているだけでイライラしてしまう。
行動のいちいちをチェックしてしまう。
少しでも連絡が途絶えると、
何をしていたのか詮索したくなる。
あらゆることで
相手を思い通りにしようとする。
” 一途な愛 ” が、いつの間にか
” 執着 ” となり、醜い姿に豹変するのです。
これをよく ” 愛情 ” ではなく、
” 独占欲 ” だと言う人もいますが、
果たして、この二つは全く別物なのでしょうか?
それとも、受け入れがたく、
不都合な ” 愛 ” にネガティブな単語を
割り当てているだけなのでしょうか?
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愛とは何か?
さて、” 愛 ” とは何でしょう?
筆者が、それに答えられるわけもありません。
と言うか、テーマが大き過ぎて、
多分、誰も答えられない。
” 愛とは人生そのもの ”
” 愛とは利他的精神だ ”
と漠然としたことなら言えるかもしれませんが、
本当のところはよく分からない。
もし ” 愛 ” と ” 独占欲 ” を
明確に使い分けているとしたら
その人は、” 愛 ” が何かを
知っているということになります。
筆者は、この二つを
明確に区別する必要は無いと考えています。
もっと言えば、誰かに抱く
” 好き ” という感情を何と呼ぶべきか、
わざわざ決める必要は無いと思うのです。
それが、” 愛 ” という言葉に当てはまるのか、
単なる ” 執着 ” なのか、” 欲 ” なのか、
どうでもよいことです。
感じたことが全てです。
それ以上でも、それ以下でもない。
*
ただ、” 好き ” という感情が、度が過ぎて、
相手を苦しめる結果になっているとすれば、
それが、” 愛 ” と呼ばれようと、
” 独占欲 ” と呼ばれようと、不協和音が
発生していることには違いありません。
束縛する側にとっては、
それは、” 一途な愛 ” であり、
束縛される側にとっては、
それは、” 独占欲 ” なのです。
つまり、” 愛 ” とは言葉の定義に過ぎない。
おかしな会話
破局寸前のカップルが言い争っている。
” 僕が、こんなに愛しているのに、
なぜ、分ってくれないんだ? ”
” あなたのは、愛じゃない。
ただ、私を束縛したいだけよ! ”
さて、この会話、
少し、変だと思いませんか?
この二人は、単純に
加害者と被害者の関係なのです。
しかし、不協和音の原因が、
愛なのか、否かという
別の議論にすり変わっている。
男性は ” 愛 ” なのだから、
それを受け入れるべきだと主張し、
女性は、それは ” 愛 ” では無いと主張する。
この二人は、一体、何を
話し合っているのでしょう?
一人の男性が、一人の女性を苦しめている。
それに女性が反発している。
ただ、それだけです。
そして、それは至って当然のことです。
それとも、それが 純粋な ” 愛 ” ならば、
苦しんでいても、受け入れなければ
ならないのでしょうか?
*
良かれと思って行った親切が、
逆に相手を傷つけているということは
実際にあります。
例えば、
電車で老人に席を譲ってあげようとすると、
老人は ” 私は、まだ、そんな年じゃない ”
と言って、それを拒む。
親切心が彼のプライドを傷つけたのです。
例えば、自信をつけてもらおうと思って、
その人を褒め過ぎると、
返って皮肉に聞こえてしまう。
それは、日常生活の中で誰にでも起こりうる。
特に珍しいことではありません。
男女の間に起こるこういった
揉め事も、結局は同じなのです。
” 愛 ” という言葉の定義は個人の自由ですが、
状況によってはその美しい概念が
誰かを傷つけることも、十分、考えられる。
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束縛する側の苦しみ
さて、束縛される側は、無論、苦しんでいる。
状況を改善したいと望んでいる。
ただ、束縛する側も苦しんでいるのです。
そして、相手を苦しめていることも
十分に理解している。
ただ、束縛する側の苦しみとは、
一度、手に入れたものを手放すことへの
不安なのです。
つまり、” 1 ” の状態から、
それを得る以前の
” 0 ” の状態に戻るという不安。
反対に、束縛される側は、
単に降りかかった災難から
逃れようとしているだけです。
つまり、
” -1 ” の状態を ” 0 ” に戻そうとしている。
*
筆者には、この関係が
南北戦争以前のアメリカに重なって見えるのです。
当時、アメリカ南部の白人たちは
黒人を私有財産だと主張し、反発が高まっていた。
そこに、エイブラハム・リンカーンが登場した。
リンカーンは奴隷制度という
人類最大の不条理を解放宣言によって正したのです。
そう。これは、
” 不条理 ” に関する問題です。
それが、契約によって合法化されていたとしても、
” 愛 ” という美しい言葉で言い表されたとしても、
人が、人を思い通りにコントロールすることは
” 不条理 ” 以外の何物でもないのです。
*
ゆえに、束縛する側は、失う不安、そして、
愛する人を苦しめる罪悪感、
人として道徳に反する背徳感、
という三重苦を背負うわけです。
” 自分のことを愛しさえしてくれれば・・ ”
と相手の考えが変わることで
全ての苦しみが終わるのでしょうか?
答えは、NOです。
表情は笑顔でも、
心は違っているのかもしれない。
いつ裏切られるのか分からない。
常に疑念と不安を抱えながら、
監視し続けなければならないのです。
黒人の反乱を内心では
恐れていた白人至上主義者のように。
結局、束縛した先にある
” 幸せ ” とは、幻想でしかない。
束縛される側に必要なこと
さて、この不条理な状況を
打開する策はあるのでしょうか?
これが、DV、いわゆる、
ドメスティック・バイオレンス
の問題を含んでいるというなら、
もちろん、しかるべき手続きをとるべきです。
黙って耐え続けても、
その先に、希望は見えない。
*
それが、暴力というレベルでは
なかったとしても、はやり、
必要なのは ” 立ち向かう強さ ” なのです。
無論、束縛する側の理解を得て、
円満解決出来るのであれば、
それに越したことはありません。
もし、それを望めないならば、
戦うしかない。自由のために。
それが、相手を傷つける結果になったとしても、
一粒の泥も被らずに ” いい人 ”
であり続けるよりはずっとマシです。
そもそも、そこは泥沼です。
それによって足を取られ続けている。
何らかの犠牲はあるかもしれません。
ただ、その先に
希望があることも確かです。
自分の主張に自信を持つこと。
こちらが必要以上に何かを欲しがったり、
不条理な要求をしているわけではないのです。
人間本来の状態、
” 0 ” に戻ろうとしているだけ。
あなたに何の非があると言うのでしょう?
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