” 虫の知らせ ” と夢|それは、本当に啓示なのか?

” 虫の知らせ ” という現象があります。

例えば、よく耳にするのが、
身内に何らかの不幸がある場合、
その少し前に胸騒ぎがしたというような話。

テレビ番組などでも ” 虫の知らせ ”
で大事故に巻き込まれずに、
九死に一生を得たというような
エピソードが紹介されることがあります。

また、それは、胸騒ぎというような
感覚的なものだけでなく、
夢として知らされる場合もある。

とある出来事の数日前に、
意味深な夢を見たというようなエピソードを
依頼者から聞くこともありますし、
筆者自身の体験でもあります。

*

結局のところ ” 虫の知らせ ” とは、
一体、何なのでしょう?

そして、それが夢に表れるとしたら、
どのような夢になるのでしょうか?

今回は、” 虫の知らせ ” と夢の関係について
考えていきたいと思います。

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日常の中の ” 虫の知らせ “

” 虫の知らせ ” というと、
大きな危険や出来事だけに発生する現象
のように思われるかもしれませんが、
実際、日常生活の中でも起こる身近な現象です。

こんな経験は無いでしょうか?

ある時、ぼやっと友人のことについて
考えていると突然の着信音がなり、
携帯画面を確認すると、その友人からの電話。

噂をしていると、普通は姿を
見せない本人がひょっこり現れるとか、

蕎麦が食べたいと思って家に帰ると、
夕食がまさに蕎麦だったなど。

多くの人が経験しているであろう
この ” 偶然の一致 ”

こうした日常の中の偶然の一致は
” シンクロニティ現象 ” とも呼ばれていますが、
そもそも、その発端は何だったのでしょう?

友人のことをぼんやりと考えていたら、
その友人から電話がかかってきた。

一体、いつから、その友人について
考えていたのでしょう?

どういた経緯で友人が出てきたのか?

もはや、” いつの間にか考えていた ”
としか答えようがない曖昧な思考の中の出来事です。

*

この曖昧な思考の中に潜在意識からの
インスピレーションが紛れ込んでくる。

筆者は、そう考えています。

そして、そのインスピレーションには、
未来に関することが含まれている。

つまり、友人から電話がかかってくることを
事前に察知した潜在意識が、
友人について考え始めるきっかけを与えた。

方法は何でもよいのです。

友人の顔をイメージとして脳裏に
浮かべるだけでも十分なきっかけになる。

知らず知らずに私たちは友人について考え始め、
その後に電話がかかってくる。

それが、まるで偶然の一致のように見える。

確証は永久に訪れない

では、” 虫の知らせ ” が
夢として表れた場合はどうなるでしょう?

次は、とある女性が見た夢の一例です。

ドアがバタンと閉まる音。

就寝時間になり、
ベッドでうつらうつらとし始めた時に、
ドアの閉まる大きな音が幻聴として
聞こえたと言います。

彼女は、その大きな音を聞いて、
目が覚めてしまった。

筆者は尋ねます。

” それは、家族の誰かが閉めたということでは?”

彼女の説明では、
自宅には両親と自分の三人が住んでおり、
両親はすでに別の寝室で眠っていて、
起きた形跡は無いということでした。

また、室内の空気の流れでドアが閉まる
という現象も窓が閉め切られた状態では
考えられない。

それから、翌日、次のような出来事があった。

リビングでテレビを見ていると、
両親が口喧嘩を始めたと言います。

彼女はくだらない内容に呆れて、
ただ、黙って座っていましたが、
その内イライラしてきたので、
立ち上がるとリビングを出ることにした。

その時に、
” 二人とも、いい加減にしろ! ”
という意味でリビングのドアを勢いよく閉めた。

その音により両親の口喧嘩はピタッと止まり、
彼女はドアを閉めた時、
昨日の幻聴を思い出したのです。

*

このエピソードを
” 虫の知らせ ” と言えるのかどうか、
という言葉の定義については、
ウィキペディアにお任せするとして
潜在意識は何かを感じ取りその夢を作った。

実際、昨晩、彼女の聴いたという入眠時の幻聴が
翌日にあったリビングの一件と関係があるのかどうか
物的証拠など無いわけですが、

私たちが ” 虫の知らせ ” のような現象、
もしくは、それに近い現象を体験する時、
常に、こうした確証の無い曖昧な状況として訪れます。

それが、気づくか、そうでないかを分ける。
もしくは、信じる人と信じない人を分ける。

つまり、それは常に不確かであり、
はっきりと認識することの出来ない現象なのです。

気のせいとか、思い過ごしと言って、
無視しようと思えば簡単に出来てしまう。

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信じることのリスク

では、” 虫の知らせ ” を見落とさないために、
私たちはどうしたらよいのでしょう?

まず、そういったことに関心が無く、
科学的に実証されたもの以外は信じない
という人がいたならば、きっとその人には
” 虫の知らせ ” は永久に届かない。

届かないというより、
気づこうとしないと言った方が
正しいのかもしれません。

常に、この現象は ” 曖昧さ ”
の中にしか存在出来ないわけですから、
そこに確証を求めること自体がナンセンスです。

*

では、私たちは、
” 信じよ。疑うことなかれ ” と、
奇跡を妄信することで何かしらの
予兆を察知できるようになるのでしょうか?

先ほども言ったように、
現象は、常に ” 曖昧さ ”
という霧の中に存在するのです。

誰かに立証することも、
確証を得ることも出来ない。

本物の予兆である可能性も、
単なる思い込みである可能性もある。

だから ” 疑うべきではない ” と
白か黒かを断定することも出来ないのです。

私たちが受け入れるべきは、
事実でも、奇跡でもなく ” 曖昧さ ” です。

普通ならば、
人は曖昧なものを明確にしたがる。

それが、自分にとって利益になるのか、
不利益になるのかを見定めるために。

明確に利益になるということなら、
そこに時間や労力を投資できる。

不利益であると分かっていれば
遠ざければよいのです。

しかし、曖昧であるものに対しては、
どう対処すべきかが分からない。

*

15世紀、フランスの農夫の娘として
生まれたジャンヌ・ダルクは、
十二歳の時に神の啓示を受けたと言われています。

それが、本当に神の啓示だったのか?

それとも、思い込みの激しい思春期の
少女が抱いた単なる妄想だったのか?

いずれにせよ、彼女は、それを神の声だと信じ、
生涯を投じて十九歳の若さで処刑されてしまう。

もし、彼女が、神の声を疑ったとしたら、
悲劇の結末を迎えなかったのかもしれません。

つまり、現象の全てが啓示や奇跡だと
信じることにはある一定のリスクが
伴うということです。

啓示はどこにでもある

” 自分の単なる思い込みではないか? ”

という問いかけは、
やはり、どんな局面でも必要なのです。

自分の考えに疑いを持つということは、
とても居心地が悪い。

疑うよりも、信じる方が簡単で、
強い心を手に入れることが出来る。

信じることでカタルシスを得るのです。

” 虫の知らせ ” とは、よく表現された言葉です。

それは、神の啓示だと断定もしていなければ、
全てを否定してもいない。

それ以上でも、それ以下でもない。

もし、あなたが直観力に磨きをかけて、
より明確な ” 啓示 ” を欲しがっているなら、
それは、ある意味、危険な兆候なのです。

全ては、霧の中。

あなたが見たいものが、
霧の中に見えるようになる。

どんなことにも、
” 啓示 ” を見出すことは出来る。

誰かが啓示を否定すれば、反発して、
信じたものをより頑なに信じようとする。

そして、自ら作り出した幻想に囚われたまま、
貴重な時間を失ってしまう。

*

” 虫の知らせ ” とは、どこまで行っても
” 虫の知らせ ” に過ぎないのです。

必要以上に執着するようなものではありませんし、
人生の重要な選択を託すようなものでもありません。

人生にとって重要だと思える何かがあるならば、
悩み抜いて決断することが大切であって
” 楽になりたいから ” という理由で、
” 啓示 ” を欲しがるべきではありません。

自身の心に問いかけてみてください。

自分が啓示を欲しがっているか、どうか・・

そして、つかんだものがあまりに
自分の求めているものにピッタリと
当てはまるのであれば、それが何を意味するのか?

失った時間を取り戻すのです。

 

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