夢を検索するという誤解|” 答え ” を見つけられない人へ

多くの人が夢について誤解しています。

そして、インターネットで夢の意味を
検索し続けている。

一応、筆者も情報発信者ですから、
そういう人々がいなければ、このブログが
閲覧されることはないのです。

普通なら、夢の意味を手っ取り早く、
それでいて何となく深いことを言っている
ような、誰にでも当てはまりそうな言葉を
並べておけば、多くの人がそれを見てくれる
のでしょう。

手早く簡単に知りたい情報を知ることが
出来る。そういった情報提供の形こそが
今の時代求められているものです。

理解に時間がかかりそうで、メリットが
分かりにくい話は一目でスルーされて
しまう。

このブログは明らかに後者でしょう。
今の時代にはマッチしていない。

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対話の必要性

では、誤解とは具体的にどういったもの
でしょう?

皮肉なことに、このブログを発見して
しまったということが、既に夢について
誤解していると言えてしまうわけですが、
これを簡単に説明するならば、

” 潜在意識の作り出すものにルールは無い ”
ということです。

こんな夢を見たら心理学的にはこう解釈
するとか、フロイトやユングがどうとか、
スピリチュアリズム云々といったネット上に
存在する情報は夢の作り手である潜在意識
にとってはどうでもよいことなのです。

潜在意識が夢を作るにあたってネット情報
や一般常識に従う必要は何一つなく、
そう思えばそうなるし、そう感じたなら
そう描かれる。

” 夢 ” とは空想の産物です。

そこにルールは無い。
よって事前に決められた解釈も無い。

あなたが何を空想したか?

多分、それを言い当てることは誰にも
出来ない。唯一、あなた自身を除いて。

人間の本質は、いくつかのパターンの
組み合わせで理解できるという考えが
あります。

簡単な例では、年齢層、社会的地位、職業、
性別、国籍、住んでいる地域、誕生日、
血液型、星座といったものでほとんどの
人はタイプ別に分類できる。

占い、心理学に関連した雑誌の記事や
ウェブサイトでも、こうしたタイプ別診断
がよくあります。

ここで一つの疑問。

なぜ、わざわざタイプ別にして理解しよう
としているのでしょう?

筆者は、人を理解する時に必要なのは
” 対話 ” だと考えています。
対話無き分析で人は理解できない。

どのタイプに分類できるかを考える以前に、
その人と向き合って話すことが理解への
第一歩です。

対話も無く、傾向や統計データだけを見て、
その人を理解出来たと思うべきではないと。

先ほどの疑問に対する回答は簡単です。

” 面倒だから ”

そう、私たちは忙しい。誰かを理解する
ために時間を割いて対話するほど暇ではない。

だから、手っ取り早く、簡単に自分を
取り巻く人間関係や、もしくは自分自身を
理解したい。低コストで人生を攻略したい。

つまり、人を理解するためにタイプ別に
分類するというアプローチは、その方法が
正しいから普及しているわけではなく、
合理的な現代のニーズに合致しているから
普及しているというのが筆者の考えです。

筆者が夢解釈の依頼を受け、セッションを
開始してから依頼者が途中でセッションを
放棄するケースがあります。

前もって精神的負担を感じたなら、途中で
辞退してもかまわないと伝えていますので
律儀な方なら ” 辞退お願いできますか? ”
と、一言メールを返してくれますが、稀に
音信不通になってしまう場合も。

本人に理由を尋ねることも出来ないので
はっきりしたことは分かりませんが、多分、
依頼者がイメージしていた ” 夢解釈 ” では
なかったのでしょう。

夢はその人の本心であり、心そのものなので
他人に夢解釈を依頼するという行為は人前で
裸になるようなものです。

確かにネット情報だけでそれが分かると
したら裸になる必要もありませんから、
リスクを冒さず欲しいものだけを手に入れる
ことが出来る。

このように夢に対する理解が違っていた
場合、筆者と依頼者の間に信頼関係を
築くのはとても困難です。

現代の合理的思考が、夢への理解、
人への理解を妨げてしまっている。

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” 深海 ” という場所で

先ほどはこのブログを見つけたことが
誤解をしていることの証だと言いましたが、
実際、よほど深く潜らなければ、このような
マイナーなブログに辿り着くことはないでしょう。

きっと検索結果にはニーズに合致した
優良なウェブザイトが表示されていたはず。
普通ならば、上位に表示されたニ、三の
ページをチェックして終わるはずだった・・

なぜ、このような場所に来たのか?
それは、世間一般に知られていることに

” 何か違う気がする。
私の求めているものはこれじゃない ”

という疑問が心の片隅にあったからでは
ないでしょうか。この気持ち悪さ、
違和感はとても重要です。

普通なら、そのような小さな疑問など
消えて無くなってしまう。しかし、
あなたはそこで足を留め、ふと思った・・

例えば、あながたが病院のベッドで
横になっている夢を見たとしましょう。

インターネットで夢の意味について調べ、
仮に病院に関する夢解釈があったとして、
それは、どこかの誰かが見た夢に過ぎない。

あなたの見た夢とは細かな部分が
違っている。

もし、筆者がウェブサイトの運営者ならば、
的外れだと思われないように厳密な表現を
避け、抽象的な言葉でぼんやりとした答え
を提供し、リピーターになってもらおうと
するでしょう。

社会生活に感じているストレスから避難
したい心理の表れ・・といったような。

ストレスなど誰にでもありますし、
誰もが普通は、楽な人生を送りたいと
思っているものです。

では、病院の本来の意味とは何なのか?

それを、ここで答えることは出来ないの
です。なぜなら、筆者は、あなたのことを
何も知らないのですから。

もちろん、あなたのことを知らない誰かが
作ったウェブサイトに、あなたが求めている
” 答え ” が載っていることもあるでしょう。

それが料理のレシピのようにちょっと
調べれば出てくる情報ならば。

しかし、あなたが求めているのは、
そういったことではない。もっと複雑で、
誰にも答えられない、どこにそれがある
のかすら分からないほど難しい課題
だったりする。

残念ながら、あなたの欲しい ” 答え ” は、
ここにはありません。

” 病院 ” の意味を決めたのは夢の作り手
であるあなた自身であって、他の誰か
ではないからです。

これは、夢解釈に限った話ではない。

もし、病院の夢を見たあなたが
次のような状況だったらどうでしょう。

就活が思うようにいかず、進路の選択肢が
限られていることに窮屈さを感じていた。
そして、その窮屈な人生について考えを
巡らしながら床に就いた。

” いつか海外で仕事をしてみたい・・ ”

その時に、何となく昔観た映画を思い出す。
その映画は、精神病棟に入ったとある男の
物語です。

精神安定剤を飲むふりをして舌の裏に
隠したり、暴れ回ってスタッフ数人に
取り押さえられたり、男が脱走するまでの
破天荒な入院生活を描いた。
(1975年 アメリカ映画「カッコーの巣の上で」)

なぜ、何年も前に見た映画が今頃
夢になったのでしょう?

広い世界に思いを馳せるあなたは、
閉ざされた空間で気が狂いそうになり
ながらも、自由を渇望し、最後に脱走する
主人公と自身を重ね合わせたのです。

そう、あなたが見た夢の中の病院は、
鉄格子の入った精神病棟だった。

もしかしたら、次のように思うかも
しれません。

” 何それ? そんな特別な例について
言われても夢解釈の参考にはならない。
そもそも、その映画観たことないし・・
就活だって私に関係ないし・・ ”

まさに、あなたには何の関係も無い。
そして、あまりに個人的で内輪話のような
エピソードです。

誤解してほしくないのは、夢は普遍的で
誰にでも共通する人間の本質を描くわけ
ではなく、もっと日常の細々とした誰かに
話すにはあまりにも個人的でちっぽけな
事柄が夢になるということです。

そして、その ” 個人的な事 ” は、夢を
見ている本人にとっては、人生にかかわる
とても重要な事だったりする。

このケースで言うなら病院の意味は、
” 制限された選択肢への苛立ち ” であり、
” 自由への渇望 ” です。

無論、この解釈はどこかの夢占いに載って
いるわけではありません。筆者がたった今、
考えた新しい解釈です。

言い換えるなら、あなたにとって誰かが
見た夢の意味は、” 何それ?” であり、
他人から見たあなたの夢の意味は、
” 何それ?” なのです。

人生を支配する ” 些細な事 “

人が ” 答え ” を求めようとしている時、
普通なら情報収集をするでしょう。
今の時代ならインターネットによって
それを簡単に行うことが出来る。

ゆえに、何か疑問が生じたときに、
自分が欲しい答えは情報収集によって
得られると思ってしまう。

一方、情報の発信側はニーズに答えるために
多くの人が関心を持つ情報だけをチョイス
して発信する。

つまり、誰にでも当てはまる共通した
テーマだけが情報になるのです。

そして、個人個人の抱える特殊な事情は、
些細なこととして無視されていく。

ただ、私たちは他の誰かと共通している部分
よりも自分だけにしか当てはまらない
” 個人的な事 ” によって人生の多くを支配
されている。

それは情報発信者がニーズではないとして、
切り捨ててきた ” 些細な事 ” です。

例えば、血液型でA型はこういった性格、
B型はこういった性格といった統計データが
あったからといって、それが、あなたの
人生に何の影響があるのでしょう?

私たち個人にとって誰かとの共通点こそ
” 些細な事 ” です。

それよりも、昨日、友人に送ったメッセージ
が既読になっていないことの方が、

もしくは、数日前から倦怠感が続いて
会社に行きたくないことの方が、

もしくは、今から外出するか、家に留まるか
という問題の方が私たちにとっては重要です。

情報社会の中で生きる私たちは
ウェブサイトから得た情報に何となく

” ああ、そうなんだ。
そういうものなんだね・・ ”

と漠然と受け止めながら、すっきり
しないまま、その答えに納得しようとする。
その一方で、心の底では感じている。

” 不確かさ ” を。

それは、目でとらえることが出来ない
空気のように私たちの心を気が付かない
程度に締めつけていく。

” これが私の求めているもの ”

と思える答えは、誰もが広く関心を持つ
テーマの中には存在せず、あなた以外、
誰も関心を持たないプライベートな領域に
しか存在しない。

そして、その領域とは、心の中です。

” 何か違う気がする ” という違和感は、
不正解に対するあなたの心の叫びです。

では、この違和感を解消するには、
どうすればよいか?

言い換えるなら、あなたが必要とする
答えを得るためにすべきことは?

スマホのディスプレイではなく、
” 自分自身 ” に目を向けてください。
そして、自らを社会の中の ” こういう人 ”
としてカテゴライズすることをやめる。

例えば、結婚している人、していない人、
成功している人、していない人、アラサー、
アラフォーとか、運がいいとか、悪いとか、

あなたは、統計データから見た
” その他大勢 ” でしょうか?

違います。あなたは唯一の存在。そして、
あなたの周りにいる人々も唯一の存在です。

あなたはA型でもB型でもありません。

アウトドア派でもインドア派でもない。
明るい性格でも暗い性格でもない。
価値ある存在でもなく無価値な存在でもない。

あなたは、あなたです。

もう、やめましょう。誰かの決めた
カテゴリーに自分を当てはめながら
生きるのは。

大切なのは、30代、40代として
どう生きるかではありません。女性として
どう生きるかでも、会社組織の中で
どう働くかでもありません。

全てを削ぎ落した ” あなた自身 ” が
選択したものに納得できるかどうか、
それだけです。

 

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