” 共感 ” という幻想|理解されたいという感情の先に

人は自分を理解して欲しいと思う一方で、
心を見抜かれることを恐れる。

つまり、” 理解して欲しい ” という言葉の
裏には ” 都合の悪い部分を除いて ” という
前提がある。

” 私のことを全く理解してくれない ”

家族の理解不足を嘆く思春期の子供が、
親から一言忠告を受ける。それが図星
だった場合、子供は顔を真っ赤にして
反発する。

それは、親が我が子をしっかりと理解
している証です。

そして、心を言い当てられてしまった
子供にとっては、そっちの方の ” 理解 ” は
求めていなかったというだけです。

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” 理解 ” を解体する

人の内面とは、表裏一体です。

例えば、子供が親の元から自立していく。
今までハイハイしていた子供が成長し、
お手伝いをしたがったり、自分の意見を
言うようになったりすることは成長の証
ですから微笑ましい出来事でしょう。

そのうち反抗期になり、親に反発し、
言うことを聞かなくなり、見知らぬ連中と
付き合い始め、親と対立するようになる。
こうなると、もう微笑ましい出来事とは
言えなくなる。

この場合、子供の ” 自立 ” は良い出来事
でもあり、悪い出来事でもある。

ただ、親にとって子供の自立が都合が
良かったから喜んでいただけであり、
時が過ぎ、都合が悪くなったから
悲しんでいるだけです。

子供は何も変わっていません。
ただ、成長したに過ぎない。

逆に、自立心が育たなかったら、きっと
手のかかる子だったでしょう。しかし、
そういった子は親の言うことを素直に
受け入れて、反抗することもない。
” こうした方がいい ” とアドバイスすれば、
そのようにする子です。

その反面、成人になっても、
” この子は、いつまで親のすねかじりを
しているの? ” と心配になるかもしれない。

” 自立 ” というトピックに関しても、
理解する側の都合によって、一つの事柄が
良い出来事にも悪い出来事にもなりうる。

そして理解される側では、都合によって
理解されたい事柄と理解されたくない
事柄という両面があります。

親の対応に不満を持っている子供が、
理解を求めたとしても、それはあくまで
自分の主張を押し通すために都合が良い
” 理解 ” であって ” 完全理解 ” ではない。

子供が進学せずに、音楽の道に進みたい
と言い出す。当然、親としては心配します。

親が子供に対して、
” あなたはいつも口ばかりで、
すぐ投げ出すじゃない ” と言えば、
子供はムキになってこう言い返す。

” 好きなことなら努力できるから! ”

” いつも自分から言いだして、
飽きるんでしょ! ”

” 今度は違うから! ”

話は平行線。子供が理解してほしいのは、
自分の音楽に対する情熱だけであり、
” 飽きっぽい性格 ” については理解される
と困るわけです。

これは、親子関係に限ったことではなく、
人間関係や恋愛にもおいても同じです。

誰もが ” 理解してくれない ” と周囲の
理解不足を嘆きながら、心の奥底を
見透かされることまでは望んでいない。

筆者は依頼者の夢を分析しますが、夢は
人の心そのものですから、ある意味、
心の奥底を覗く行為でもあります。
人によっては、触れられたくないタブーが
描かれていることもある。

つまり、誰かの心を理解するというのは、
その誰かを傷つけるリスクがある。
その理解が返って敵対心を作り出し、
人と人の間に壁を作る。

人々が口にする ” 理解してほしい ” という
言葉を真に受けるべきではありません。

厳密には、人は ” 理解 ” を求めているわけ
ではなく、提示したことに対する ” 同意 ”
を求めているだけです。

” 理解 ” とは、結局、何か?

先ほどの親子のケースでは、子供が親に
求めているのは理解ではなく同意です。

一般的な家庭であれば、親が子供の進路に
口を出すのは当たり前ですし、
子供も成人を迎えて一人立ちするまでは、
親の言うことを聞かなければいけない。

要するに、目的達成のためには、
一応は親からの許可が必要なわけです。
例えるなら、改札口で乗車券をチェック
する駅員と利用客の関係。

許可をしてもらうためには同意が必要
であり、そのために音楽への熱量を
理解してもらわなければいけない。

つまり、駅員が乗車券を確認する行為が
” 理解 ” であり、改札口を通過するのを
止めない行為が ” 同意 ” です。

実際求めているのは ” 同意 ” なので、
極論、駅員が乗車券を確認せずに改札口
を素通り出来れば目的は達成できる。
・・まあ、止められるでしょうが。

理解を求めるというのは、最終目的を
達成するための付随的な欲求であって、
それ自体を求めてるわけではない。

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” 共感 ” の構造

” 同意 ” ではなく、” 共感 ” という意味で
理解を求める場合もあります。

よく言われているのは、女性が何かを
話す場合、相手に解決法を求めている
わけではなく、共感を求めているという
あの有名な言説。

話を聞いている男性は、一生懸命、
解決法を教えようとするが、女性側から
見れば ” そういうことじゃない ” と
思われている。

しかし、本当に、女性は話を聞いて
もらいたいだけなのでしょうか?
仮に、男性からの回答が問題解決できる
パーフェクトアンサーだったとしても。

体調のことで不安を抱える女性が、
病院に訪れ医師の診察を受ける。医師は
女性の長々とした説明を聞き終えて
一言返す。

” では、お薬の量を増やしましょう ”

” ええ、お願いします ”

医師は女性に共感したわけではなく、
専門家として病状を把握し、女性が
最も望んでいたであろう回答をした。

実はこの女性は、病院に行く前日、
夫にも体調について相談していた。
夫は妻の話に相槌を打ちながら、苦しみを
分かち合う姿勢を示した。ただ、それに
対する妻の反応は次のようなものだった。

” 何なの? さっきから軽々しく相槌
ばかり打って、私の苦しみがあなたに
分かるわけ? ”

” いや、大変そうだなって思っただけさ ”

” 何、その他人事みたいな言い方? ”

” そんなに言うなら病院に行けば
いいんじゃないか? ”

” 言われなくたって行くわよ! ”

一体、彼女に、どう返すことが正解
だったのでしょう?

彼女は、初めから ” 共感 ” など求めて
いません。彼女が求めているのは、
明らかに専門家による判断と薬です。

彼女の中にある不安とは、健康上の問題
であり、何の根拠もない夫の ” 大丈夫 ”
に安心できるはずもない。

彼女が夫の共感に欺瞞を感じてしまった
のは、夫が苦しみを感じていないから
ですが、夫が同じ病状で苦しんでいたら
彼女の不安が払拭できたのでしょうか?

むしろ、夫婦そろってそんな状態では
余計に不安でしょう。

このケースで夫が妻に適切な回答を返す
ことはほぼ不可能です。彼は専門家では
ないから。言うなれば、最初から負けが
約束された消化試合です。

この場合、夫が可能な限り、妻の怒りを
買わない方法は、自分が同じ病気になるか、
共感を一斉排除し、何を言われても黙って
傍にいるかどちらかです。

夫が同じ病気になれば、妻に本物の共感
を与えることが出来る。ただ、自分と
同じ苦しみを背負った人にサポートを
求めることもできず妻は孤立します。

実は、同じ病気になる必要もなく、
サポートできない状態を作り出せれば
全く同じ効果を得られる。もっと重い病気
になるとか、すでにこの世にいないとか。

つまり、女性が誰かに何かしら困り事を
話し始めた時に共感を示すという手法は、
厳密には何をしているのかと言うと、
困り事を解決できない白旗を上げている
のと同じです。

” 私が熱出しても、旦那が、全然、
動いてくれなくってさ・・ ”

” うちの旦那も同じ。家に子供が二人
いるみたいなものよ・・ ”

妻たちの世間話は続くわけですが、
その中で ” ああ、この人も私と同じだ ”
と思いつつ、” この人に相談しても解決
できることじゃないわ ” という ” 諦め ”
を獲得する。

つまり、誰かに話してスッキリしたという
あの感覚は、問題が解決しないことを
受け入れたという ” 諦め ” です。

” 共感 ” とは、” 私はあなたが求めている
ものを持っていない ” という宣言であり、
共感者はそれによってサポートを要求
されることを回避している。言わば、
味方の立場でありながらも、当事者に
ならないために ” 離脱 ” をしているのです。

ただ、” 共感 ” には、もう一つの側面が
あります。それは ” 同胞意識 ”
同じ苦しみを背負う人は、同じ目的を
持っているわけですから、問題解決の際に
助け合える可能性がある。

そういった目算の上に、白旗を上げる
共感者に対してサポートを求めるといった
圧力をかけることが出来ない。二重の意味
で共感者は守られるわけです。

この ” 共感 ” という防御反応は、
カウンセリングにおける相談者と
カウンセラーの間でもよく使われます。

相談者が感情的になっている時、
カウンセラーは励ます意味で次のように
言う。

” 問題を解決できるように、二人で
頑張りましょう ”

これによって相談者はカウンセラーが
攻撃対象ではなく、同じ方向を向いている
同胞であると認識する。

仮に、夫が極度の心配性で妻が寝込んで
しまった時にパニックを起こしてブルブル
震えているだけなら、妻は溜息をついて
思うでしょう。

” 全く当てにならないわ・・ ”

ある意味、共感防御になっています。

” 共感 ” は存在するか?

少し話を戻しましょう。先ほど
妻に相談を受けた夫が出来る対処として、
同じ苦しみを背負うか、黙って傍にいるか
という二つの選択肢がありました。

同じ苦しみを背負うことが不可能である
なら、残された選択は後者のみという
ことになります。

さて、黙って当事者に寄り添うという
姿勢は ” 共感 ” と呼べるのでしょうか?

病気で苦しむ妻の傍で、スマホでSNSを
チェックしたり、本を読んだり、何かを
しているが、常に何も言わずに傍にいる。

これは ” 共感 ” ではなく、” サポート ”
です。

もちろん、彼女に最も必要なのは病状の
改善ですが、それは医師から受ける治療
によって解決される問題です。夫に
その力が無いことは彼女も分かっている。

夫に出来ることと言えば、苦しむ妻から、
ちょっとした要求があった場合に、
すぐに動ける状態を作っておくことです。
そして、妻も夫に対してはそれを望んでいる。

無論、夫は妻の苦しみを感じ取ることは
出来ません。あくまで客観的視点で判断
することしか出来ない。妻も苦しみを
分かち合おうとは思っておらず、実質的な
サポートを要求しているだけです。

この場合、夫は、課せられた義務を
果たしているに過ぎない。

” 妻がこういう時、普通なら、
旦那はこれぐらいのことはすべきよね ”

という妻の認識に沿って動いている限り、
共感があっても無くても、心配そうな顔
をしていようと、無表情であろうと、
妻に怒られることはない。

さて、女性は男性に比べ ” 共感 ” を求める
というあの言説は、本当なのでしょうか?

理解されたいという欲求も、結局は、
目的を達成するための手段でしかなかった。
共感についても、実際求められているのは
実質的なサポートだった・・・とすれば、
私たちが見ていたものは、一体、
何だったのか?

そもそも、” 共感 ” と言う感情は存在する
のでしょうか?

共感することは事実あります。

高校生になった息子が面倒事を後回しに
する性格が、自分にそっくりならば、
親は我が子に共感するでしょう。まるで
自分の嫌な部分を鏡で見せられている
ような苦々しさを感じながら。

今の政治に怒りを感じている人は、
SNSで怒りを共感し合っているでしょう。

同じ苦しみを抱える人に同情し、
涙することもあるでしょう。力になりたい
と思うこともあるでしょう。

” 共感 ” とは、感情ではありません。
単なる認識です。

それは、対象者の中に自分と共通した感情
があることを認識した、ということでしかない。

そして、その共通していたものが何で
あるかによって、嫌悪感を持ったり、
同情したり、何も感じなかったり、
その後のリアクションに違いが出る。

あなたが人生のどん底を経験したことが
あるなら、道端で座り込んでいるやつれた
ホームレスの空き缶に、そっとお金を寄付
するでしょう。

それは、共感によって ” 過去のあなた ”
を認識し、
” もし、あの時の自分に出会ったら、
希望を捨てるなと言ってやりたい ”
というあなたの思いが寄付という行為に
繋がったのです。

もし、ホームレスの前を通りかかった
あなたが過去のみすぼらしい自分を
思い出し、嫌悪感を抱いたとしたら寄付を
しなかったかもしれない。そして、
心の中でこう思う。

” 自分は誰の助けも借りなかった。
世の中そんなに甘くないということを
この人も知るべきだ ”

仮に、あなたがホームレスだったとして、
ゴミ袋を引きずりながら、通りを歩いて
いると別のホームレスが座り込んでいる
のを目撃する。あなたはこう思う。

” ああ、この人も社会から
脱落したんだ・・ ”

あなたは振り向くこともなく、無関心に
ホームレスの前を横切っていく。

この三つのパターンには全て ” 共感 ” が
あります。ただし、それぞれの感じ方は
違っていた。つまり、共感とは ” 理解 ”
の一形態に過ぎない。

果たして、私たちが常に求め続けている
” 理解 ” とは何でしょう?
” 共感 ” とは何でしょう?

それは、言葉の綾であり、幻想なのかも
しれない。

それが ” 幻想 ” だと言うなら、
私たちが真に求めているものとは、
一体、何でしょう?

 

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