テレビを見ている夢|画面の向こうに入り込む

夢の中でテレビを見ている。

例えば、自宅でテレビを見るといった日常的な設定。もしくは、夢自体がテレビ画面になっており、自分自身は夢の中には登場しないという場合もあります。

テレビの中に自身が入り込み、番組に参加することさえあります。または、テレビの中の人物が、こちら側の世界に入ってくるという逆のパターンも。

夢の中では、画面のこちら側と向こう側との境界が曖昧になり、融合してしまうという現象は、しばしば起こります。

また、テレビとは限らず、最近ではスマホやタブレットなどで動画を見る機会も多いので、動画を視聴する夢でも、やはり、この現象は起こる。

いずれにせよ、夢の世界に登場した画面の中に別の世界が存在するという ” 入れ子 ” とも言える、少々、複雑な構造で夢が作られています。

これは、どのように解釈したらよいのでしょう?

広告

画面の中の出来事

次は、とある男性が見た夢の一例です。

テレビで ” 警視庁24時 ” のドキュメンタリー番組を見ている。
 
暴走族と警察官の乱闘が始まる。
 
いつの間にか自分は現場にいる。
 
乱闘騒ぎの中に入っていき、どうにかして喧嘩を止めようとしている。

こうした ” 画面の中の世界 ” を設定として取り込んでいる理由は、夢を見ている本人が客観的にそれを眺めるためです。

現実世界では、画面の中の出来事は外側にいる私たちには直接の影響がありません。

アクション映画を観ていても、画面の中から弾丸が飛んできて負傷することもありませんし、こちらから登場人物に話しかけることもできない。

潜在意識は、この特性を演出として利用します。

こういった設定で、自分を客観的な立場に置いているのは ” 画面の中の事に関わりたくない ” という気持ちの表れ、と考えることができます。

と言っても、関わりたくなければ、そもそも夢を作らなければよいのです。

しかし、潜在意識は、あえてそれを作り、私たちに見せる。そこには人の裏腹な心理が表現されている。

さて、裏腹な心理とは、どういったものでしょう。

例えば、とある女性が ” ドラマで結婚式のシーンを見ている ” という夢を見たとします。

彼女の中に ” 結婚には興味があるが、当事者になる心の準備が整っていない ” という心理があったとして、

潜在意識は、自身を画面の外に置き ” ただ見ている人 ” という気楽な立場にすることで、心の中の結婚願望を間接的、部分的に満たすということをします。

無論、それは ” 気休め ” ですが。

つまり、自分には必要だが、ある程度、距離を置きたい事を画面の中に入れておく、という妥協的心理の一つです。

全く関わらないという姿勢ではなく、少なからず関わりを求めながらも、正面から受け止める勇気がないといった場合に、画面の中にそれを置き、自分は画面の外側にいるという設定を作るわけです。

では、今回の夢は、どのように解釈すべきでしょう?

テレビの中で暴走族と警察官との乱闘が繰り広げられている。これは、現実であっても関わりたくない物騒な現場です。

そして、この夢で特徴的なのが、途中から本人がテレビの中に入ってしまうという点です。

画面の中の出来事にして距離を置こうとしながらも、結局は自ら関わっていくという流れ。一見すると、わざわざ組み立てた演出をぶち壊しにするような展開です。

ここには、どんな意図があるのでしょう?

小さ過ぎた箱

乱闘する暴走族と警察官は、この夢を見た男性の心の状態を表しています。

心の中で対立する二つの感情が葛藤する状態を ” 暴走族 ” と ” 警官隊 ” の衝突という形で描いている。

この夢の内容だけでは、どういった感情が衝突しているのか具体的なことは分かりませんが、

暴走族と警察という対照的な存在から、” 善良な心 ” と ” 利己的な心 ” または、” 理性的部分 ” と ” 感情的部分 ” といったものが対立しているようにも見えます。

この心の葛藤が乱闘騒ぎとして描かれ、それをテレビの中の出来事にすることで、彼の抱える問題を ” 他人事 ” として処理しようとしている。

” これは俺のことじゃない。ただのテレビ番組さ・・ ”

しかし、この夢ではストーリーの後半になると、彼自身がテレビの中の騒動に自ら参加していきます。

これは、彼がテレビの中に入ったわけではなく、テレビの中の世界が彼の側に ” はみ出してきた ” と言った方がよいかもしれません。

つまり、夢を作った潜在意識が、こう言っている。

” すまない。画面に押し込めようとしたが大き過ぎて入りきらなかった。それに、これは元々、君の問題じゃないか ”

潜在意識は、彼が抱える問題をテレビの中に封じ込めようとしたが、最終的に失敗する。

夢を見ている本人が、そこに描かれていることが自分自身の問題であると気づきはじめた状態です。

彼は乱闘騒ぎの中に飲み込まれながらも、必死に喧嘩を仲裁しようと努力をしている。感情の折り合いをつけるために妥協点を探しているのです。

サイズはどれぐらいだったか?

さて、今回はテレビ画面に関わりたくないことを封じ込めて処理するという事例でしたが、

例えば、これがテレビではなく、タブレットなら、さらに小さいスマホなら、解釈に違いはあるのでしょうか?

厳密な区切りはありませんが、一つの見方として画面が大きなものならば、画面の中の世界とこちら側の世界は、比較的、近いのかもしれません。

映画館のような大きなスクリーンで見れば、それだけ臨場感が出ますから、画面の中で起こっている出来事が観客を飲み込む効果と同じく、境界が曖昧になりやすい。

小さな画面よりは、大きな画面である方が、それだけ差し迫った問題を取り扱っていると考えることは出来ます。

逆に小さな画面ならば、そこで人類滅亡が描かれたとしても、” ああ、小さな画面で何かやってるな ” という程度のインパクトしか与えない。

スマホ画面に収まるならば、本人にとっては ” 小さな問題 ” に過ぎないと考えることが出来る。

画面の大きさによって、取り扱われる問題の重要度をある程度見極めることは可能かもしれません。

ただ、日頃からテレビを見ない、スマホで動画ばかりを見ているといった生活習慣のある人なら、夢を作る段階で、スマホで動画を見ているという設定を選択するのは、ごく自然なことでしょう。

そういった場合は、画面の大きさは、それほど解釈に影響しないかもしれません。

ゲーム画面だった場合

では、テレビを見ているのではなく、ゲームをしている場合は、どうなるでしょう?

テレビとゲームとでは、少々性質が違います。

テレビは、ただ見ていればいいだけですが、ゲームは自ら画面の向こう側の世界をコントロール出来るので、ある意味、こちら側の世界と非常に近い関係にあります。

モンスターに襲われることもありますし、銃弾で撃ち抜かれることもある。

唯一の違いと言えば、撃ち抜かれても自分が死ぬわけではなく、ゲームキャラクターが死ぬだけです。

そういった意味では、半分はこちら側の出来事、もう半分は画面の中の出来事なので、ある意味、閉じ込められた世界と、こちら側の世界の中間と言えるかもしれません。

さらに、最近では、VR( バーチャルリアリティ ) が登場し、様々なデバイスが存在しています。より、現実世界とゲームの世界が接近している。

ただ、ゲームの中に再現された仮想世界は、現実世界に似せてはありますが、あくまで ” 仮想 ” に過ぎないので、VRの世界が、もし、夢になったとしても、その違いを理解しておく必要はあるでしょう。

例えば、仮想世界のルールは、ゲーム開発者が決定しているわけです。

仮想世界で石を投げれば地面に落下するでしょうが、それは、引力によって落下しているわけではなく、プログラムの物理演算によって落下している。

同じようにも見えますが、もし、夢の中で石を投げて、なぜか途中で消えたり、同じ軌道をリピートしたり、いつまでも落ち続けるというバグが再現されたら、

潜在意識は、あえて仮想世界のルールを採用しているわけです。逆を言えば、そこには現実世界のルールを採用しなかった理由がある。

もし、人生にうんざりしている人が、目の前を横切る通行人が同じ動作を繰り返すという夢を見たら、そこは仮想世界なのでしょう。

そこが仮想世界なら、本当の世界は別にあると思うことが出来る。

今の人生は ” 仮 ” であることの証明になります。

 

関連記事


読む

読む

広告