“自己肯定感” とは何か?|自信の無さを克服するために 

自己肯定感。多くの人は、それを手に
入れることが出来ずにいる。

筆者も ” 自己肯定感を持っていますか?”
と尋ねられたら、多分、自信無さげに
首をすくめるでしょう。

筆者の記憶が確かならば、自己肯定感
だけを持っている人と出会ったことは、
今まで一度も無かったと思います。

自信に満ち溢れた自分大好き人間。
あなたは、そんな人を見たことが
ありますか?

一般的には、ポジティブ思考や感謝の
気持ちを持つといった形で自己肯定感
を高める方法が紹介されることが多い
ですが、ここでは少し違った角度から、
それについて考えてみます。

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パーフェクトな自己肯定感

もしかしたら、テレビやSNSでなら、
自己肯定感の超高い人がいるかも
しれません。しかし、それが真実か、
作られた虚像なのかは、私たちには
分からない。

極端な話、自己肯定感しかないというなら、
それは、ある意味、自分の考え行いは
100%正しいと思っている人ですから、
多分、周りの人とは上手く付き合って
いけないでしょうし、社会生活をまともに
送れないでしょう。

でも、芸能人にしても、有名なインスタ
グラマーにしても、華やかな表舞台の
裏では、ちゃんと普通の社会生活を
送っている。

つまり、自己肯定感があったとしても、
常識範囲内のレベル、もしかしたら、
私やあなたと、大して変わらないのかも
しれません。

また、人間関係や社会生活に問題があれば、
自己肯定感を維持することは困難です。
どこかで妥協し、自己肯定感をある程度
捨てた上で自己否定を容認しなければ
ならなくなるはず。

つまり、パーフェクトな自己肯定感を
獲得するためには、社会との接触を断ち、
” 世捨て人 ” になるしかない。

だから、社会生活を送れている人は、
必ず、自己肯定部分と自己否定部分を
両方持っていることになります。
割合には個人差はあると思いますが。

では、” 自己否定感 ” について考えて
みましょう。あまり聞きなれない言葉
ですが、” 自己肯定感 ” の反対と思って
ください。

全く自分に自信を持つことができず、
何をしてもつくづく上手くいかない
不運な人。つまり、自己肯定感が標準
よりも低いと感じている場合です。

パーフェクトとは言わずとも、今の自分
よりも、ちょっとだけ高くさえ出来れば
よいという考えもあるでしょう。

実際は、自己肯定感と自己否定感は
表裏一体です。

例えば、これだけは誰にも負けないと
思えた特技があったとしましょう。
しかし、自分よりも実力の無さそうな人に
あっさりと負けてしまった時、どんな
気分でしょう。

” あんな奴に何で俺が負けたんだ!”

自己肯定感を支えていた自分の特技が、
実は大したことが無かったという現実を
突きつけられ、それまでの自信の大きさに
比例して、同じ大きさの自己否定感を
背負うことになります。

多分、彼は、二度とそれを ” 特技 ” とは
言わないでしょう。仮にその特技だった
何かが、一般人よりも優れていたとしても。

そもそも、彼は、なぜその特技に自信を
持つことが出来たのでしょう?
それは、自分よりも優れた人と接触する
機会がこれまで無かったから。つまり、
彼は隔離された世界の ” 世捨て人 ” だった
と言えます。

そこから考えれば、” 自己肯定感 ” を
高めるために必要な解とは、単純です。

自己を隔離すること。

他者との比較

自己肯定感を高めるには、自分よりも
劣った人の集団にいることであり、誰とも
接触せずに自宅に籠ることであり、絶対に
勝てるゲームだけに参加することです。

こうなってくると ” 自己肯定感が高い ”
という言葉のイメージ自体が、ちょっと
変わってきますよね? 多分、もっと
ポジティブなイメージだったはず・・

でも、実際はどうでしょう?

例えば、映画やドラマでもよく登場する
妙にプライドが高くて常にグループの
中心にいるタイプの人。そして、いつも
お付きの家来をつけている。まさに、
自己肯定感の塊みたいな人ですが、

その人の自己肯定感を支えているのは、
自分よりも目立たない存在であるお付きの
家来たちです。よって、家来たちが、
自分よりも目立っていたり、実力が上
だったりしては困る。

要するに、グループという隔離された
世界です。

自分が優位な立場でいられる ” 聖域 ” を
作るために世界に境界線を引けば、
いとも簡単に自己肯定感が手に入る。

聖域に入れるのは、無論、自分よりも
弱い人間であり、プライドを揺るがさない
無害な存在だけです。

より高い自己肯定感を求めるなら、
聖域の面積を広げていけばよい。
つまり、グループの規模を大きくするか、
部屋の中で仮想世界のスーパーヒーロー
になるか、方法はいくつかあります。

いずれにせよ、自己肯定感が高い人は、
そういった線引きをどこかでしているか、
そもそも、人生経験が少な過ぎて世界を
知らないだけなのか、どちらかです。

彼らは聖域の外に出れば、自分の保持
している自己肯定感が失われることを
知っているため、常にグループの中に
いることを望み、グループの統制と
支配にエネルギーを注ぐ。

ある意味、” 自分の居場所 ” を守っている
とも言えます。

自己肯定感とは、そもそも他人との比較
によって生まれるものです。比較に使う
基準は状況によって様々。

不良グループなら誰が一番喧嘩が強いとか、
ビジネスマンなら誰が一番成功して
いるとか、ティーンエイジャーなら誰が
一番人気者だとか、勉強が出来るとか、
ゲーマーならばランキングは何位だとか、

その界隈で使われている基準によって
比較することで ” 自己肯定感 ” が生まれる。
それ以外の方法では生み出せない。

例えば、アフォメーションや自己暗示
によって ” 自己肯定感 ” を高めるという
方法もあるでしょう。しかし、結局は
頭の中で比較をしています。
過去に出会った誰かや世間一般のイメージ
といった外部の存在と。

頭の中から、都合の悪い存在を排除し、
都合の良いものだけをチョイスして、
自分が優位に立てるシミュレーションをする。

どの基準で比較するかは個人によって
違いますが、私たちの誰もがメンタルを
保つために何らかの手段を講じて
” 自己肯定感 ” を維持、または獲得する
ための努力をしている。

しかし、自己肯定感への強い執着は、
自己否定感を抱えていることの裏返し
ですから、いかに自分が優れているか、
グループの中心であるかをアピール
する人は、決して自己肯定感が高いとは
言えないわけです。

仮に、自己肯定感が高かったとしても、
それは、隔離という裏工作によって
作り上げられた不安定な ” はりぼて ” に
過ぎない。

では、自己肯定感の理想的状態とは、
どういったものでしょう?

安住の地

自己肯定感を求めない。

求めればそれは執着であり、自己否定感
の表れですから、自己肯定感を高めたいと
望むほど、理想の状態から遠ざかっていく。

また、求め続けた結果、聖域を作ることが
出来たとしましょう。しかし、それは
隔離によってようやく成しえた形だけの
砦です。そして、砦に綻びが出来ないよう
常に目を光らせ、侵略者や謀反に怯えながら
日々を過ごすことになる。

後は、その緊迫した状態でメンタルが
いつまで持つか。

そもそも、それは他者との比較によって
得られる相対的感情ですから、
” 自己肯定感 ” に主体性はありません。

多くの人が誤解しているのは、自己肯定感
を高めることができれば、メンタルの安定
を得られると考えていることです。

自己肯定感を高めても、
” 安住の地 ” は手に入らない。

私たちが見ている理想像とは、自己肯定感
が高い状態ではなく、自己肯定感に関心の
無い状態です。

既に高い自己肯定感を獲得しているため
関心が無いのではなく、そもそも関心が
無い。無論、失うことを恐れる必要もない。

分かりやすい例として、赤ん坊は
自己肯定感そのものを認識していません。
他者との能力差があり、強者と弱者が
世界に存在することすら知りません。

彼が認識しているのは、母と父という
” 世界の守護者 ” とそこから受ける恩恵、
それから、あまり自分とは関わりのない
頭上のクルクル回る何か。

とは言え、私たちが赤ん坊に戻ることは
不可能。そして、自分には到底及ばない
巨大な力が世界に存在している。
その事実を記憶から抹消することも
出来ない。

しかし、比較することや競争から離脱
することは可能です。

ライバルに勝てたからといって、一体、
それが何でしょう? ライバルよりも
優れた人材など探せばいくらでもいます。

世界を知れば知るほど、自己肯定感は
失われていくだけです。
そして、その高め方は意外に単純であり、
多くの人はすでにそれを実践している。

多くの人が ” 安住の地 ” を手に入れる
ことが出来ず、さらなる高みを目指し、
家来の数や名声と富に執着し、
いつか手に入るという幻想を信じながら、
努力を続けている。

あなたもその人々に加わって、砂漠に
浮かんだ揺らめく蜃気楼にたどり着くまで
行進し続けますか?

それとも、限られた水を節約しながら、
駱駝に跨って小さな村を探しますか?

そこは夢の国ではないが、多分、旅人に
少量の食糧と水を恵んでくれる善意ある
人々がいるはずです。

あなたは小さな存在。いえ、誰もが。
そして、お互いに助け合える。

そこには、立場も階級もありません。

 

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