ネットの誹謗中傷について|SNSとの付き合い方

このブログでは、あまり時事について触れることはありませんが、最近、巷で流れているネット上の誹謗中傷に関するニュースを見て、筆者にも思うことがあったので、この機会に述べておこうと思います。

ニュースでは有名人に対する誹謗中傷が取り上げられやすいですが、一般の方であっても必ずしも誹謗中傷の矛先になる可能性が無いわけではない。

事実、子供たちの間でSNSを介したイジメが問題になっている。

そして、SNSが私たちの生活の身近なところまで普及し、全く関わらずに生きていくということも難しくなってきている。

私たちは、このSNSというもの、そして、その中で行われている他人に対する誹謗中傷という現象にどう向き合っていけばよいのでしょう?

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石を投げ続ける人々

ネット上では汚い言葉によって誰かを傷つけるという行為が当たり前のように行われている。人は、これほどまでに攻撃的で会ったこともない他人に憎悪を抱けるのか?

筆者が疑問だったのはその点でした。

実際に会ってみて迷惑をかけられ、不快な思いをしたわけではない。金を取られたり、大切なものを奪われたわけでもない。

しかし、標的となった人に向かって、その存在を否定するような言葉を彼らは投げかけるのです。そして、最も相手が傷つくであろう言葉を選びながら、効果があるか無いかを確かめている。

仮に、それが相手にダメージを与えたとして、だから、どうだと言うのでしょう?それが自分の人生のプラスになるわけでもないのに。

もし、石を投げる人全員に ” なぜ、石を投げるのですか?” と聞いたとしても ” むかついたから ” というような、ありきたりな回答しか得られないでしょう。

多分、彼らも自分が石を投げている理由を分かっていないと思います。

彼らは標的に刺々しい言葉を投げかけながらも、実は、その言葉は標的に向かって投げられたわけではないということです。

的となった人は、実際、名誉と尊厳を傷つけられたわけですが、それは間違いなく、その人に投げつけられた言葉が原因でしょう。被害者と加害者の関係は明らか。

しかし、それを投げる人は、二種類の石を使い分けながら投げている。

一つは、標的になった被害者に、
もう一つは、私たちであり、あなたです。

また、私たちに投げられた石は標的に投げられたものより大きい。

二つの石

筆者もTwitterを見ることがありますが、時折、タイムラインで行われている誹謗中傷を目にすることがあります。それは ” 返信 ” としてコメントされている。

誰かのツイートの下にぶらさがった形で表示されるツイートに対する感想。X(旧Twitter)を利用するユーザーならば誰でもそれを見ることができる。

なぜ、ダイレクトメッセージという形で直接、相手に向かって石を投げずに ” 返信 ” として書くのでしょう?

その誹謗中傷は最初から、運悪く的になった人にではなく、私たちに投げるつもりの石だからです。

例えば、有名人に投げられた石。

自分がどんな石を投げ込んだのか、私たちに見てほしいのです。多分 ” 知性 ” という宝石のつもりで加害者はそれを投げている。

” どう、この鋭い意見。俺って凄いでしょ? ”

” 皆、あんな奴より私の方がマシなこと言っていると思わない? ”

この返信に書き込まれる誹謗中傷は、被害者を傷つけるという目的よりも、閲覧者に対するパフォーマンスとしての性質が大きいと筆者は考えます。

要するに、被害者はそのために利用されているのです。

これは、被害者の投稿に直接書き込まれるコメントだけではなく、被害者に味方する投稿に対する批判的コメントも同じです。

有名人に投げつけられる誹謗中傷は、単純に成功した人に対する嫉妬が噴出した結果でしょう。

人生がうまくいかず現実に打ちのめされた人々が、運命の女神に微笑まれた ” 運のいい人 ” に石を投げる。

” なぜ、あんな奴が幸せな人生を送れて、真面目に生きている私がこんな惨めな人生を送っているの? ”

有名人に投げられた石は、私たちに向けて投げかけられた ” こんな社会って、おかしくないですか? ” という問いかけです。

無論、ダイレクトメッセージに誹謗中傷を直接書く人もいるでしょう。ここには ” 閲覧者 ” は介在できない。

不特定多数に向けた返信とは違いますが、結局、これも別の形として不特定多数に対するアプローチです。

つまり、ダイレクトメッセージで批判をする人が言いたいのは、” あなたのせいで、こんな人々が増えるじゃないですか ”

要するに、影響力のある存在に、” 変なことを発言するな ” と クレームをぶつけることで世の中を正しい道に戻そうとしている。

本人は正義感による正当な行為だと思っているのでしょう。しかし、実際は、単なる ” 自分が幸せになれない社会 ” を是正したいだけなのです。

ある意味、社会が疲弊して多くの人々が苦難を強いられている今この時代にSNS上でこうした問題が持ち上がるのは必然なのかもしれません。

きっと、社会がもっと住みやすい環境ならば、人々が幸せを感じることが出来る人生を送っているならば、このような問題は小さな範囲で収まっていた・・

SNSで起こる誹謗中傷の数々は、希望の無い人生を送る人々の ” 憤怒 ” が形となった結果なのでしょう。

石を投げる人。

もしかすると、筆者も周囲の状況や環境によっては、そちら側になっていたのかもしれない。

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沈黙する人々

さて、誹謗中傷は、絶対に無くならないのでしょうか?

ネット上の誹謗中傷の原因が、人々の幸福感の不足が招いたことならば、” 幸せを実感できる社会作り ” というのはシンプルな回答です。

多分、それが正攻法でしょう。

しかし、それは政治によって、ようやく実現出来るかどうかという大きなテーマです。政治に対して私たちが出来るのは、基本、投票することだけ。

ならば、個人としてSNSのこういった問題について、どう向き合っていくべきか?

筆者はタイムラインで石を投げ続ける人々を見ていて、とあることに気づきました。彼らが ” 石を投げる ” 以外の努力をしていないことに。

つまり、自分が幸せになるために彼らは一生懸命、社会を変えようとしているわけですが、実際に行動していることと言えば、思ったことを ” 呟いている ” だけです。

” 自分のツイートが誰かに届き、社会が変わるきっかけになればいい ”

と言う意図がそこにあるわけですが、幸せになるための努力としてはあまりに小さく、簡単で、遠回りです。

もし、本当に社会が間違っていると感じるなら、石を投げる前に既に行動を起こしているでしょう。だが、そういった面倒な努力はしない。

SNSに素晴らしいコメントを書き残したところで人生が変わることはない。

彼らが期待していることは、明らかに ” 幻想 ” です。

私たちがネット上の誹謗中傷をし続ける人々に出来る対処は単純明快です。

反応しない。リアクションを取らない。もし、あなたが攻撃対象になっているならば、速やかにブロック。

そういった人々の発言に反論する必要もありません。それは誹謗中傷者の言葉を拡散しないためと言うよりは、彼らが私たちの反論によって変わることは期待できないからです。

彼らが ” 呟き ” によって、社会や自分の人生を変えることが出来ないのと同じく、私たちも彼らを変えることは出来ない。

幻想を信じ続ける人々に真実を教えるというような使命感も必要ありません。その考えが ” 幻想 ” だからです。彼らは、それを私たちにしようとしているのです。

それで、あなたの考えは変わりましたか?

” ならば、あんな酷い行いを野放しにしておけと言うのか? ” という疑問を持つかもしれません。

無論、法的手続きを踏んでしっかりとした対応を行う必要があれば、そうすべきです。

ただ、野放しになった獣を ” 呟き ” で食い止めることは出来ないということも理解しておくべきです。むしろ、焼石に水、火に油という結果になる可能性の方が大きい。

そして、筆者に言われるまでもなく、多くの人はそれを実践している。SNSで行われているおかしな発言について、スルーしています。

わざわざ、SNSに自分の意見を書き残すこともない。関わる必要のない人に、自分から関わりにいかない。無意味なことに時間を使わない。

至って、賢明な判断です。

筆者としては、一定の良識を守った上でSNSを利用することに異論はありません。

ただ、自分の発言が、それを投げかけられた人にどんな影響を与えるのか想像することは大切だと思います。

ただのジョークのつもりが、相手を傷つけることもある。もし、相手がどう受け止めるか分からない場合はジョークは言わない。

当たり前のことですが、SNSで起こる不毛な誹謗中傷のほとんどは、そういった常識的な判断を欠いた人々が行っている。

本当に匿名性が原因か?

匿名性が問題となることがあります。

匿名であることが無責任な発言の原因を作っていると。しかし、筆者は必ずしもそうではないと考えています。

無論、匿名アカウント全てが誹謗中傷を行っているわけはありませんし、匿名でも、しない人はしないでしょう。

筆者が匿名だとしても、おかしな発言をしている人を見つけたからといって誹謗中傷を投げかけようとは思わない。その行為が無意味だから。

匿名だから石を投げるのではなく、匿名であっても石を投げる必要性がそもそも無いのです。

そして、そのような発言を行うことで自分の中の大切な何かが失われる気がします。匿名であるからといって、自身に対する問いかけから逃れることは出来ない。

” あーあー、言っちゃった。
これであんたもあいつらと同じね ”

誹謗中傷を行ってしまう本質的問題は ” 客観的視点 ” の欠如です。匿名であるかどうかは関係ない。

例えば、誰かに向かって暴言を吐いてみましょう。

そして、その暴言によって相手が動揺し、唇を震わせている。この時、心の中に二つの感情が生まれる。

” あ、しまった。言い過ぎたかな? ”

” いや、そんなことはない。どう考えたって相手が悪いんだ ”

” でも、あの言い方は・・ ”

” うるさーい! つべこべ言うな!”

瞬間的に心の中でこのやりとりが行われていたこと、二つの感情のパワーバランスを認識することが出来るかどうか。

SNSは顔が見えないので震える唇を確認することはできませんが、” もし、自分が言われたら・・ ” という想定をすることは可能です。

こうした客観的視点によって、自身の行いを反省することもあれば、考えを変えたり、悩んだり、打開策を見つけることもある。

いわゆる ” 省察 ” です。

私たちが日常生活でいつもやっていることです。夢は、その心の紆余曲折を描いている。また、日記をつける習慣のある人ならば、それをより深く行っているはずです。

客観的視点が失われた人々が生まれる理由は、単純にメンタルが不安定だからと片づけることも出来ますが、実際は ” 省察 ” が習慣化されていない、ということが理由である気がします。

” 省察 ” という後ろ向きな活動は、合理性や生産性の視点からは、何も生み出していないようにも見える。

この現代社会で、人々は何か大切なものを置き忘れてしまった・・・としたら、そういったことなのかもしれません。

それが誹謗中傷を繰り返す人々という ” 現象 ” として表出している。

彼らは、暴言を吐きだす度に、自身が落ちていくことに気が付かない。ただ、息苦しさだけは感じているのです。

その息苦しさから解放される唯一の方法が暴言を吐くことだと思い込みながら、それを吐き続ける。時にはスカッとした振りをしながら、心のモヤモヤを抱えたまま、無駄な一日を終える。

その悪循環を断ち切るには、自身を省みるための ” 心の静寂 ” が必要なのです。

 

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