” 計算高い ” と言われて嫌われてしまう人。
もちろん、誰しも ” 頭が悪そう ” と
言われるより ” 知性的だ ” と言われたい。
しかし、自分以外の誰か、自分に近い存在、
例えば付き合う異性が頭脳明晰だと、少々、
やりづらい場合があります。
恋人にどんな嘘をついても見破られて
しまう。恋人は知っていながら知らない
ふりをする。
心理戦では常に負けるわけですから、
それが ” ふり ” なのかそうでないかを
知る術がない。やがて、その関係が
ストレスになっていく。
ゆえに、恋愛において、多少、ぼんやり
していて裏表の無い純朴な人が好かれたり
するのです。
大抵の人は無意識のうちに防御本能が
働いて、自分の力ではコントロール
出来ない人物をなるべく避けようとする。
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” 猿の惑星 ” に見る計算高さ
人々は、よく計算高い人を ” 腹黒い ” と
表現して批判します。この ” 腹黒さ ” とは、
結局、何なのでしょう?
一般的なイメージでは、利己的で、かつ、
それを表面には出さない。まるで、背景色と
同化して獲物を狙うカメレオンのような
存在。
ただ、カメレオンが餌を獲るのを見ていても
” 腹黒い ” とは思いません。単に、
この動物は元々こういう生態なのだと
割り切って見ている。
それが、人間になると途端に
嫌われてしまう。
その理由は、カメレオンは人間の脅威には
ならないが、人は人の脅威になるから・・
*
2011年に公開された映画
” サルの惑星 創世記 ” は、科学によって
人間の知能を手に入れたチンパンジー、
シーザーが仲間の猿たちを解放して、
人間の支配から独立しようとする物語です。
まさに、シーザーは
” 計算高い人物 ” として登場しています。
目的を達成するために、人間の裏をかき、
欺く。
しかし、シーザーの行いは利己的である
と同時に高い志のようなものも感じます。
自らの、そして全ての猿の尊厳を勝ちとる
ために戦う姿。
まさに、動機は集団的な利己心なのです。
ただ、映画を観ていて、とても痛快で、
最後にはシーザーを応援したくなって
しまう。
果たしてシーザーは
” 腹黒い ” のでしょうか?
*
この映画で最も象徴的な場面は、
シーザーが研究所の意地悪な飼育員を
痛めつけるところです。
まさに、ただのチンパンジーだと思っていた
シーザーに出し抜かれた飼育員のショックと
怒りが、計算高い人に向けられる嫌悪感
そのものです。
それは、これまでコントロール出来る
と思っていた存在が、実はコントロール
出来ない、もしくは、逆に自分が
コントロールされていたと知ったときの
衝撃です。
つまり、その嫌悪感はコントロールを
奪われることへの ” 恐れ ”
瞳の奥に映し出されたもの
例えば、アインシュタインのようなIQ190
の天才と会話をする機会があったとしても、
彼が語っていることが真実か否か、
私たちには分からない。
彼の一言が奥深い洞察によって導かれた
ものであったとしても、また、何となく
思いついた一言であったとしても、
凡人である私たちには、それを判別する
ことが出来ない。
彼の瞳の奥に何が映っているのか、
それを知ることは永久に出来ないのです。
*
人はベールに包まれた ” 未知 ” に対して、
ある種の恐怖を感じる。
子供の頃、大きな池の水面をじっと見つめて
いると、暗く奥深い水中に何かいるような
気がしてきて、身震いした経験があります。
人の疑心暗鬼が怪物を生み出す。
結局、計算高い人の瞳の奥を見透かすことが
出来ない私たちは、そこに自分の妄想を
映し出して怖がっているだけなのかも
しれません。
つまり、計算高い人に裏があるのではなく、
私たちが彼らの ” 表 ” を見ても理解できない
ので、その言動が ” 裏 ” に見えるという
ことです。
丁度、立ち話をしている外国人たちを見て、
” 何を話しているんだろう? ” と訝る日本人
のような状態。外国人は単なる日常会話を
しているだけなのですが。
ゆえに、想像力のある人の方が計算高い人
に対する嫌悪感は強く、不安や恐れを
感じやすい。
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理解不足が招くこと
そもそも、人を理解するというのは
極めて難しい。
恋人や家族、友達を理解しているようで、
本当は何も知らないのかもしれません。
理解しているように見えて、実は主観に
よって屈折した光を見ているのかもしれない。
そして、人そのものが常に変化しています。
私たちが、一度、捉えたと思った光は、
次の瞬間、別のものになっている。
親の知らないうちに、
子は大人になっている。
その時、誰かを理解したと感じても、
それは、あくまでその瞬間のその人を理解
しただけなのです。
そして、理解し合えないことが諍いを
起こすこともある。人種、政治思想、
性別、階級、資本家と労働者、
マイノリティとマジョリティ・・
理解できないと感じる ” 自分とは違う人たち ”
勝手な憶測で理解不足を埋め合わせ、
相手を偏見の眼差しで非難する。
計算高い人とは、
理解できない ” 自分とは違う人 ” です。
つまり、人種差別と計算高い人に対する
非難は、根幹が同じなのです。
*
例えば、過去、愛する人に嘘をつかれ、
裏切られた経験がある人が予防策として、
恋人の本性を見極めようとする。
知っていながら知らないふりをして
恋人を泳がせる。
彼女は計算高いのでしょうか?
政治家が事ある毎に入る妨害工作に備えて、
スケジュールを前倒ししたり、関係者と
秘密裏に会談して外堀を埋める。
これは、計算高いということでしょうか?
それは ” 経験による学び ” です。
つまり、” 計算高さ ” は積み上げられた
人生経験と比例する。子供から見れば、
全ての大人は ” 計算高い人 ” です。
*
もし、子供しか存在しないネバーランドに
大人のあなたが迷い込んでしまった
としたら、あなたは途端に ” 危険人物 ” です。
捕らえられ、子供の王の前に
連行されるあなた。
あなたが何を弁明しようと、
子供たちには、それが理解出来ない。
” 貴様は、なぜ、背が高いのだ?
説明してみろ! ”
” ですから、現実世界では、
子供は皆、成長して大人になるんです! ”
” 何を訳の分からないことを言っている?
その魔術で高くした背で我々を監視して
いるのであろう ”
大臣たちが口々に言う。
” このオトナとやらは、
嘘をついているかもしれません ”
” ほっておけば、何をしでかすか
分かったものじゃない ”
” よし、縛り首だ! 牢獄に連れていけ!”
子供たちがあなたに対して感じた ” 恐れ ”
それが、嫌悪感の正体です。
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