計算高い人が嫌われてしまう理由|嫌悪感の正体

” 計算高い ” と言われて嫌われてしまう人。

もちろん、誰しも ” 頭が悪そう ” と
言われるより ” 知性的だ ” と言われたい。

しかし、自分以外の誰か、自分に近い存在、
例えば付き合う異性が頭脳明晰だと、少々、
やりづらい場合があります。

恋人にどんな嘘をついても見破られて
しまう。恋人は知っていながら知らない
ふりをする。

心理戦では常に負けるわけですから、
それが ” ふり ” なのかそうでないかを
知る術がない。やがて、その関係が
ストレスになっていく。

ゆえに、恋愛において、多少、ぼんやり
していて裏表の無い純朴な人が好かれたり
するのです。

大抵の人は無意識のうちに防御本能が
働いて、自分の力ではコントロール
出来ない人物をなるべく避けようとする。

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” 猿の惑星 ” に見る計算高さ

人々は、よく計算高い人を ” 腹黒い ” と
表現して批判します。この ” 腹黒さ ” とは、
結局、何なのでしょう?

一般的なイメージでは、利己的で、かつ、
それを表面には出さない。まるで、背景色と
同化して獲物を狙うカメレオンのような
存在。

ただ、カメレオンが餌を獲るのを見ていても
” 腹黒い ” とは思いません。単に、
この動物は元々こういう生態なのだと
割り切って見ている。

それが、人間になると途端に
嫌われてしまう。

その理由は、カメレオンは人間の脅威には
ならないが、人は人の脅威になるから・・

2011年に公開された映画
” サルの惑星 創世記 ” は、科学によって
人間の知能を手に入れたチンパンジー、
シーザーが仲間の猿たちを解放して、
人間の支配から独立しようとする物語です。

まさに、シーザーは
” 計算高い人物 ” として登場しています。
目的を達成するために、人間の裏をかき、
欺く。

しかし、シーザーの行いは利己的である
と同時に高い志のようなものも感じます。
自らの、そして全ての猿の尊厳を勝ちとる
ために戦う姿。

まさに、動機は集団的な利己心なのです。

ただ、映画を観ていて、とても痛快で、
最後にはシーザーを応援したくなって
しまう。

果たしてシーザーは
” 腹黒い ” のでしょうか?

この映画で最も象徴的な場面は、
シーザーが研究所の意地悪な飼育員を
痛めつけるところです。

まさに、ただのチンパンジーだと思っていた
シーザーに出し抜かれた飼育員のショックと
怒りが、計算高い人に向けられる嫌悪感
そのものです。

それは、これまでコントロール出来る
と思っていた存在が、実はコントロール
出来ない、もしくは、逆に自分が
コントロールされていたと知ったときの
衝撃です。

つまり、その嫌悪感はコントロールを
奪われることへの ” 恐れ ”

瞳の奥に映し出されたもの

例えば、アインシュタインのようなIQ190
の天才と会話をする機会があったとしても、
彼が語っていることが真実か否か、
私たちには分からない。

彼の一言が奥深い洞察によって導かれた
ものであったとしても、また、何となく
思いついた一言であったとしても、
凡人である私たちには、それを判別する
ことが出来ない。

彼の瞳の奥に何が映っているのか、
それを知ることは永久に出来ないのです。

人はベールに包まれた ” 未知 ” に対して、
ある種の恐怖を感じる。

子供の頃、大きな池の水面をじっと見つめて
いると、暗く奥深い水中に何かいるような
気がしてきて、身震いした経験があります。

人の疑心暗鬼が怪物を生み出す。

結局、計算高い人の瞳の奥を見透かすことが
出来ない私たちは、そこに自分の妄想を
映し出して怖がっているだけなのかも
しれません。

つまり、計算高い人に裏があるのではなく、
私たちが彼らの ” 表 ” を見ても理解できない
ので、その言動が ” 裏 ” に見えるという
ことです。

丁度、立ち話をしている外国人たちを見て、
” 何を話しているんだろう? ” と訝る日本人
のような状態。外国人は単なる日常会話を
しているだけなのですが。

ゆえに、想像力のある人の方が計算高い人
に対する嫌悪感は強く、不安や恐れを
感じやすい。

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理解不足が招くこと

そもそも、人を理解するというのは
極めて難しい。

恋人や家族、友達を理解しているようで、
本当は何も知らないのかもしれません。
理解しているように見えて、実は主観に
よって屈折した光を見ているのかもしれない。

そして、人そのものが常に変化しています。
私たちが、一度、捉えたと思った光は、
次の瞬間、別のものになっている。

親の知らないうちに、
子は大人になっている。

その時、誰かを理解したと感じても、
それは、あくまでその瞬間のその人を理解
しただけなのです。

そして、理解し合えないことが諍いを
起こすこともある。人種、政治思想、
性別、階級、資本家と労働者、
マイノリティとマジョリティ・・

理解できないと感じる ” 自分とは違う人たち ”

勝手な憶測で理解不足を埋め合わせ、
相手を偏見の眼差しで非難する。

計算高い人とは、
理解できない ” 自分とは違う人 ” です。

つまり、人種差別と計算高い人に対する
非難は、根幹が同じなのです。

例えば、過去、愛する人に嘘をつかれ、
裏切られた経験がある人が予防策として、
恋人の本性を見極めようとする。

知っていながら知らないふりをして
恋人を泳がせる。

彼女は計算高いのでしょうか?

政治家が事ある毎に入る妨害工作に備えて、
スケジュールを前倒ししたり、関係者と
秘密裏に会談して外堀を埋める。

これは、計算高いということでしょうか?

それは ” 経験による学び ” です。

つまり、” 計算高さ ” は積み上げられた
人生経験と比例する。子供から見れば、
全ての大人は ” 計算高い人 ” です。

もし、子供しか存在しないネバーランドに
大人のあなたが迷い込んでしまった
としたら、あなたは途端に ” 危険人物 ” です。

捕らえられ、子供の王の前に
連行されるあなた。

あなたが何を弁明しようと、
子供たちには、それが理解出来ない。

” 貴様は、なぜ、背が高いのだ?
説明してみろ! ”

” ですから、現実世界では、
子供は皆、成長して大人になるんです! ”

” 何を訳の分からないことを言っている?
その魔術で高くした背で我々を監視して
いるのであろう ”

大臣たちが口々に言う。

” このオトナとやらは、
嘘をついているかもしれません ”

” ほっておけば、何をしでかすか
分かったものじゃない ”

” よし、縛り首だ! 牢獄に連れていけ!”

子供たちがあなたに対して感じた ” 恐れ ”
それが、嫌悪感の正体です。

 

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