” 心の声 ” とは何か?|どうすれば聞けるのか?

” 心の声 ” とは、一体、何でしょう?

聞こえるとしたら、どのように聞こえる
のでしょうか? そもそも、その ” 声 ” は
存在するのでしょうか?

このブログでも、よく ” 心の声 ” という
言葉を使うことがあります。

それは、夢を通じて伝えられる潜在意識
からのメッセージという意味で使っている
わけですが、

夢以外でも、心の中で自身に問いかけ、
答えを得ようとするときにも、はやり
” 心の声 ” と表現することがあります。

例えば、瞑想中にふと頭の中で、
” 今のあなたには愛が足りない ”
と言われたような気がする、もしくは
実際にそう聞こえたというような場合、
これは ” 心の声 ” なのでしょうか?

また、結婚相手を選ぶ時に、将来や経済力、
性格など、あらゆる条件から導いた結論は
” 心の声 ” と言えるのでしょうか?

論理的思考と ” 心の声 ” は
何が違うのでしょう?

広告

” 心の声 ” とは何か?

何もかも上手くいっている時、私たちは
振り返ったりはしないものです。

何か壁にぶち当たり躓いたときに、ようやく
自分を見つめ直そうとする。
その時に初めて、心の底から聞こえてくる
” 小さな声 ” に耳を傾けようとするのです。

ここでは、” 心の声 ” と言っていますが、
その声は、実際、言葉として自身に
語りかけてくるわけではない。
それは、文章でもなく、日本語でも無い。

それは、” 気分 ” としてやってくる。

例えば、病気で寝込んでいる時に気力だけは
感じるということがあります。それが、
前向きな考えを生み出し、言葉へと変換される。

” ここで倒れている場合じゃない。
早く元気になろう! ”

その時、ひしひしと感じていた気力こそが
” 心の声 ” です。

言葉とは、その後に変換されたものであって
” 声 ” そのものではないというのが筆者の
見方です。

ゆえに、深い瞑想中、聞き慣れた声で
” 愛が足りない ” と言うセリフが本当に
聞こえたとしたら、

それは、トランス状態における幻聴のような
ものだったのでしょう。ただ、幻聴としての
夢も実際にありますから、ある意味、それも
” 声 ” の一つの形と言うことも出来ますが。

” 心の声 ” を捉えるには?

夢は潜在意識からのメッセージであり、
それは ” 心の声 ” である。という説明は、
実は厳密には正しくありません。

( 便宜上、そう説明すると分かりやすいので、
そうしているのですが )

先ほども言ったように、” 声 ” は、気分、
もしくは、感覚という無形のものであって、
言葉や映像ではないということです。

” 声 ” が、言葉に変換されると ” セリフ ”
となり、映像に変換されれば ” 夢 ” になる。

つまり、幻聴や夢は ” 声 ” そのもの
ではなく、あくまで二次的な創作物です。

もし、人生のスランプに陥って、どうすれば
よいか分からなくなった時、” 答え ” を
求めて自身に問いかける瞬間があったと
しましょう。

” なぜ、こうなったのか? ”
” 今、何をすべきか? ”

しかし、どれだけ待ってもセリフとして
答えは返ってこない。

それは、” 声 ” が届いていないのではなく、
明確な言葉として変換されていないために
認識出来ない状態です。

それは、単なる ” 感覚 ” ですから、感受性の
強い人なら感じ取ることも出来ますが、
そうでない場合は、気づかないまま放置
されていたりする。

特に、論理的思考をするタイプの人は、
陥りやすい落とし穴です。

また、論理的思考の人は、答えが自身の内側
ではなく外側にあると考える。ゆえに自身の
感覚を放置したまま情報収集から始めてしまう。

それを認識できるように言葉に変換する
ためには、まず、この ” 感覚 ” を捉える
必要があります。

” 自分の感じているこの感覚は、
一体、どこから来ているのだろう? ”

そうやって潜在意識の真意を探り当てる。

最初に ” 感覚 ” があり、その後に ” 言葉 ”
がある。その逆はありません。

広告

論理的思考、そして、衝動

論理的思考と” 心の声 ” との違いは、
コンピューターと人間の違いに似ています。

例えば、婚活サイトで年収や職業、身長
などを条件入力して検索すれば、それに
見合った候補者リストを作成してくれる
でしょう。

しかし、実際、その人に会ってみると、
また別の印象を持ったりします。

” フィーリング ” という言い方もしますが、
それがある意味、心の声に近いかもしれません。

ただ、人は論理的思考をしているようで、
案外、フィーリングによって動いている
ということがあります。

例えば、何人かの候補者の中で第一印象で
” いいな ” と感じた異性が一人いたとします。

しかし、条件も大切なので、一応は冷静な目
で全員を評価しようとはする。ですが、
最もらしい理由を挙げながらも、結局は
第一印象で気に入った異性を選ぶ。

論理的に選択しているように見えても、
思考の方がフィーリングに引っ張られている
状態です。

そういった意味では、私たちは知らず知らず
のうちに心の声に従って生きている。

では、論理的思考ではなく、その真逆にある
” 衝動 ” についてはどうでしょう?

今挙げた、第一印象によって異性を選ぶ
という選択にも言えることですが、それは
” 心の声 ” と言うより単なる衝動ではないか?

喉の渇きを癒すために炭酸ジュースが
欲しくなるとか、ネット検索で素敵な
アイテムを見つけて、購入ボタンを
つい押したくなるといった時の心理状態。

衝動は、心の声と言えるのでしょうか?

確かなのは、心の声とは神の声でも天使の声
でもないということです。それは、現実に
生きるリアルな声です。

だから、必ずしも、声が自身を神に至る道
へと導くわけじゃない。そんな立派で
崇高なものではない。

例えば、ゲームばかりをして親にゲームを
禁止された子供に聞こえる声は、

” ゲームプログラマーになるためには、
ゲームで遊ぶ必要がある ”

でしょうし、どうしてもタトゥーを入れたい
若者に聞こえる声は、

” 自分を変えるためにはタトゥーが
必要不可欠だ ” でしょう。

多くの夢を観察していても分かること
ですが、そこに垣間見るのは不道徳な欲望
であったり、言い訳であったり、
怒りであったり、衝動もその一つです。

もちろん、愛情や勇気と言ったポジティブな
感情もある。それをひっくるめて
” 真実の言葉 ” なのです。

問題なのは、一つの声に囚われてバランスを
崩した状態。

つまり、声は一つではない。

天使と悪魔

ゲームを禁止された子供には、最初、
” ゲームプログラマーになるために
ゲームで遊ぶことは必要だ ”
という声だけではなく、

” それは口実だろ。お前プログラマーに
なる気なんてないじゃん ”
という声も聞こえていた。

しかし、前者の声が強い衝動によって大きく
なり過ぎて後者の声がかき消されてしまう。

この調整が効かなくなった状態が私たちから
冷静な判断を奪うのです。

つまり、心の声は、私たちを滅ぼすもの
であると同時に救い出すものでもある。
それは、天使にもなりうるし、悪魔にもなりうる。

自身を見つめ直すという行為は、この時に
初めて意味を持つのです。

それは、客観的視点。

自分がどの声に囚われているのか、どの声に
よって救われるのか、それを外側から確認
するための作業です。

大きくなった声をクールダウンさせて、
小さくなってしまった声に耳を傾ける。

そのプロセスを経て、自分に本当に必要な
” 答え ” を導き出していく。

人は、常に一つの声に導かれて生きている
わけではありません。そこには葛藤があり、
それを修復するプロセスがある。

人には、” 自助力 ” があります。

ただ、バランスが大きく崩れてしまった時、
その ” 自助力 ” が機能しないことがある。

自身を客観視することは何を調整すべきかを
点検するということです。そうして、心の
” 自己修復機能 ” をマネジメントするのです。

 

関連記事


読む

読む

広告

 

この記事をシェアする