不可思議な偶然の一致のことを ” シンクロニティ現象 ” と言います。
例えば、友人のことをぼんやりと考えていたら、その友人から電話がかかってくるとか、あまり会いたくない人物と、運悪く街角でバッタリ出会ってしまうなど。
” 噂をすれば影 “という諺があるぐらいですから、古来からこの現象は一般的に認識されていたのでしょう。
夢と現実の間にも、こうした ” 偶然の一致 ” を見つけることは、しばしばあります。
夢で見たことが実際に現実となる ” 正夢 ” は、最も分かりやすいシンクロニティの一つと言えるかもしれません。
現実世界で起こる超常現象については、他のウェブサイトにお任せするとして、ここでは、夢と現実の間に起こるシンクロ二ティに絞って見ていくことにしましょう。
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現実と夢における偶然の一致
まず、夢と現実の間で、時折見られるこの不可思議な一致は、” シンクロニティ ” という言い方ではなく、” 予知 ” と呼ばれています。
夢が未来の出来事を予知し、それが実際に起こると、あたかもシンクロしたかのように見える。
次は筆者が、ウトウトと居眠りをしていた最中に見た夢の一例です。
休憩時間の職場で同僚と談笑している。
夢の内容は、これといったストーリーも無く、一場面のみの短い夢でした。それは、随分前に勤めていた会社の見慣れた光景だった。
意識を取り戻してから、” なぜ、今頃、こんな夢を見るのだろう? ” と思いました。
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数日が過ぎた頃、本棚の整理をしていると、ヒラリと本に挟んでいた一枚のハガキが落ちた。
手に取ると、その同僚からの年賀状でした。
裏には、彼の家族の写真が載っていて、筆者はそれを見て、とても懐かしく感じた。
” 昔は、よく二人でくだらない話をしたな・・ ”
そう思いながら、先日の夢を思い出したのです。
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もう一つ筆者の夢を紹介しましょう。
リビングに一匹の蝶が優雅に飛んでる。
自分は蝶の意味を考えている。
筆者は夢の中で、蝶を目撃し、それが何の象徴かを分析しようとしていました。つまり、自分が夢を見ている自覚のあるいわゆる ” 明晰夢 ” の状態です。
夢占いでは、蝶には吉凶、様々な意味があるので解釈が難しいものの一つです。
ただ、後日、次のような出来事がありました。
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サンルームに迷い込んだ一匹のアゲハチョウが、方向感覚を失って、ガラスに何度も体当たりをしていた。
ちょっと方向を変えれば、開いた窓から外に出られるが、蝶は無意味な努力を続けていました。
筆者は、それを捕まえると窓の外に逃がした。
ただ、それだけです。
夢の中の蝶に象徴的意味など無かったのです。もしかしたら、捕まえたそれをリビングで飛ばしてみたかっただけなのかもしれません。
偶然か、必然か
通常、夢が未来の出来事を暗示する場合は、潜在意識による ” 脚色 ” が行われるので、事実そのものを映し出すということは、ほとんどありません。
先ほどの蝶の夢でも、夢の中で見た蝶と実際のアゲハチョウは違っていました。発見する場所も違っていた。
また、会社の同僚と談笑していた夢も、出来事としては古い年賀状を見つけて、当時のことを思い出しただけで、実際に同僚と会ったわけではありません。
どちらも、部分的なシンクロに留まっています。
完全に再現されていないが、一部、共通点があるという状態を、果たして ” 予知 ” と言えるのか?
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これら奇妙な部分的一致は、偶然か、何らかの因果関係があるか、どちらかになります。そして、これを明確に判別する手段はありません。
仮に、それが全くの偶然だったとします。
その場合、単なる確率論となり、100枚宝くじを買えば、一枚ぐらいは当たるかもしれない、といったシンプルな結論に行き着くことになる。
つまり、” かもしれない ” で終わり、その先には何もありません。探求しても無駄足でしかないという結論ですから、無論、それ以上、探求されることもない。
では、逆に、そこに因果関係があると仮定しましょう。それは、本人の ” 思い込み ” かも知れませんし、” 予知 ” かもしれない。
思い込みならば、それは ” 主観 ” です。
主観とは、その人の中にあるものですから、客観的にそれを測定することはできません。
誰かが ” それは君の思い込みだ ” と言ったところで、その意見も誰かの主観でしかないのですから。
もし、100人が同じ意見を持ったとしても、結局は、集団心理に流された100人の主観でしかなく、” かもしれない ” の集まりです。
では、それが ” 思い込み ” だったとします。
ならば、一体、この奇妙な現象は、なぜ起こったのか? という問いだけが残る。
返ってくる答えは、” 偶然起こった ” になります。つまり、結局は、確率論に帰結し、それ以上、探求できることはない。
もし、これが ” 予知 ” なら・・
筆者が指摘したいのは、これら不可思議な現象を確率論や個人のバイアスによって説明できたわけではなく、説明を放棄しているにすぎない、という点です。
つまり、偶然ではないと仮定するならば、そこに何かがあると仮定し、探求を続けるならば、それが ” 予知 ” である、という結論を避けては通れない。
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可能性が無いとして探求をやめるのか、そこに可能性があることを信じて探求を続けるのか、これは、真実か嘘かという問題ではなく、単なるスタンスの問題です。
” 新しい発見 ” とは、どちらのスタンスによってもたらされるのか、それは明らかでしょう。無論、全てが徒労に終わる可能性もある。
事実認定をする必要はありません。ここで大切なのは、あなたがどういった姿勢で、それと向き合うかです。
この主張は、真偽の明言を避け、話を逸らしているように聞こえるかもしれません。
しかし、先ほども言ったとおり、私たちには、それが偶然であるのか、そうでないのかを見極めることは不可能なのです。
仮定された ” 予知 “
では、これらが ” 予知 ” であると仮定して、現実と夢との間に起こるシンクロ二ティについて考えてみます。
先ほど挙げた二例の夢では、完全な一致ではなく、部分的一致に留まっていました。
なぜ、完全一致ではないのか?
別の記事で、そのことについて詳しく触れていますが、ここでは、その概要を簡単に説明してみます。
最初に理解しておきたいのは、夢は、何らかの目的を持って作られるということです。潜在意識が、目的もなく、ただ何となく夢を作ることはありません。
さて、目的があるなら、そこには ” 意思 ” があるということになります。つまり、バイアスがある。
そして、バイアスは事実を歪めることがある。それは誰もが経験上知っているでしょう。そのせいで判断が鈍ったり、意見が偏ったりする。
言うなれば、夢は、そのバイアスから作られるわけです。
つまり、偏っている。
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現実世界の出来事を完全再現しないのは、そもそも夢がバイアスを元に作られているから。
潜在意識にとって、現実を鏡に映すかように模写することに何のメリットもないのです。だから、もし絵を描くならそこには、動機があり、思惑がある。
都合が悪ければ、都合よく書き換え、事実を歪曲する。
サンルームで見つけた蝶を、すぐに逃がしてしまったこと少し後悔したなら、見つける場所をリビングに設定するでしょう。
捕まえた蝶が小さく地味だったら、大きく美しい蝶に取り換えるでしょう。
年賀状の写真を見て、若かりしあの頃に戻りたいと思ったなら、” あの頃 ” を再現するでしょう。
事実を歪曲した結果、一部のみが残り、それ以外は書き換えられた夢になる。
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このように、夢に目的があると仮定した場合、そこには様々な因果関係を見つけることが出来る。
それを軸に夢解釈を行うことで、メンタルの状態や未来の暗示といった、潜在意識から発信されたメッセージに気づく機会を得る。
ただし、こうした夢の性質を理解しないまま、向き合えば、それは ” 偶然の産物 ” にしか見えない。
また、それが ” 予知 ” だったとして、実現するタイミングには時差があります。
その出来事が起こったとき、数週間前に見た何気ない日常を描いた夢を覚えている人は、どれぐらいいるでしょう?
多分、誰も。
もし、何もかもが偶然だったとして、その ” 偶然 ” から、何らかの ” 気づき ” が得られるとしたら、その ” 気づき ” は、嘘になるのでしょうか?
その ” 気づき ” によって、あなたが気持ちを切り替えたり、元気を取り戻したりした時、その体験は嘘になるのでしょうか?
あなたは、その小さなサインに、どう向き合いますか?
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